諫早干拓資料館
諫早干拓資料館は、昭和62年、国のモデル木造施設建設事業で建てられた施設です。柱を使わないフレーム架構式の構造で、16cm×80cmの大断面集成材を長尺物(16m)として用いています。 諫早市は、東に有明海(諫早湾)、西に大村湾、南に橘湾と三方を海に接しています。ここは長崎街道の主要地点で長崎半島、島原半島、西彼半島への分岐点として、早くより交通の要衝であったところです。江戸時代には新しい知識を求めて長崎を目指した遊学の志や、維新の志が頻繁に立ち寄った所でもあります。 諫早というと平成9年の潮受堤防の締め切りにより、干拓で有名になった所ですが、諫早での干拓の歴史は古く、鎌倉時代末までさかのぼり。、西暦1330年あたりを開始の時期とし
毛利博物館
旧長州藩主毛利家に伝来する美術工芸品・歴史資料約2万点を収蔵、公開しています。これらの資料のうち、国宝が4件7点、重要文化財が約9千点、西日本有数の博物館として知られています。あわせて、国の文化財に指定されている庭園と屋敷を公開しています。
目白美術館
目白美術館を設立した意義と使命。2014年7月、目白美術館がスタートしました。目白美術館はビルのワンフロアを利用した小規模な美術館ですが、日本が世界に誇るべき洋画界の巨匠の作品をコレクションするユニークな美術館です。目白美術館では、刑部人(おさかべじん)、鈴木千久馬、楢原健三、桜田精一、桐野江節雄、田中繁吉、といった、昭和、平成初期に活躍した洋画家の巨匠たちの作品を約400点収蔵しています。これらの洋画家は、生前、その卓越した表現力、強烈な個性で一世を風靡していましたが、死後、時の経過とともに、徐々にその存在が忘れられ始めています。しかし、いくら時間が経過しても、これらの巨匠たちの作品の価値が消えていくわけではありません。逆に、これ
野坂オートマタ美術館
オートマタとは18~19世紀のヨーロッパで科学者であり最高の技術者でもあった「時計技師」たちによって生み出された「機械仕掛けの芸術品」です。 野坂オートマタ美術館は、当時の王侯貴族たちに愛された文化遺産=オートマタの数々を専門に展示する、世界でも類を見ない美術館です。2000年春、リゾート地として知られる「伊豆高原」の桜並木通りに誕生しました。
林芙美子記念館
この建物は『放浪記』『浮雲』などの代表作で知られる作家・林芙美子が、昭和16年(1941)8月から昭和26年(1951)6月28日にその生涯を閉じるまで住んでいた家です。大正11年(1922)に上京して以来、多くの苦労をしてきた芙美子は、昭和5年(1930)に落合の地に移り住み、昭和14年(1939)12月にはこの土地を購入し、新居を建設しはじめました。新居建設当時、建坪の制限があったため、芙美子名義の生活棟と、画家であった夫・緑敏名義のアトリエ棟をそれぞれ建て、その後すぐにつなぎ合わせました。芙美子は新居の建設のため、建築について勉強をし、設計者や大工を連れて京都の民家を見学に行ったり、材木を見に行くなど、その思い入れは格別でした
歴史に憩う橿原市博物館
橿原市には、原始以来の先人の営みが大地に刻まれた、史跡新沢千塚古墳群、特別史跡藤原宮跡や、江戸時代の建造物が数多く建ち並び当時の町並みを今に伝える、重要伝統的建造物群保存地区今井町をはじめとする、優れた歴史遺産が随所に残されています。本市では、このような貴重な文化財の保護と活用に取り組んでおり、このたび、新沢千塚古墳群公園整備事業の先駆けとして、「歴史に憩う橿原市博物館」を開館いたしました。博物館の前身は、1976(昭和51)年の新沢千塚古墳群の史跡指定が契機となり、財団法人大和歴史教育センターが建設され、1978(昭和53)年に開館しました橿原市千塚資料館であります。博物館は先の資料館と同様に、隣接する新沢千塚古墳群のサイトミュー
蓮華寺
当山は慶雲元年(704)文武天皇の勅願により行基菩薩が開創した森町で一番古いお寺です。当山は飛鳥時代から奈良時代にかけて建立された法相宗の東海の本山として周囲4Kmに及ぶ寺領を有し1300年の歴史と歴代住職139代を数え、その間数多くの傑出した高僧を排出しています。当山16代住職慈覚大師(比叡山延暦寺第三世座主)は天長8年(831)に一山三十六坊を建立し七堂伽藍の整備を行い、これに伴い宗派も天台宗に改宗しこの地方の文化の中心地として長く隆盛を極めました。この様に歴史に名を留めるが如く栄華を誇った当山ではあったが、明治2~3年にかけて政府の廃仏毀釈の制度を受けて一山諸堂を廃止したために往時の面影は失われ今日小寺ではあるが、当山には往時
六甲ミーツアート 芸術散歩
六甲山の自然を感じながらピクニック気分で現代アート作品を楽しむ展覧会「六甲ミーツ・アート 芸術散歩」