まねる・まなぶ‐「なりきる」表現‐

ARTLOGUE 編集部2016/06/14(火) - 21:29 に投稿
まねる・まなぶ‐「なりきる」表現‐
とあるダンサーの手記を読んでいた時、気になる箇所にぶつかりました。 それは、自分が苦労して創り上げた作品が、ツアー中の日本でコピーされたことについて書いているくだり。真似された側としての当惑(不快感?)が見え隠れしていました。模倣、盗作…昔も今もある話ではあります。ではなぜ気になってしまったのか。それは真似した側がむしろ堂々と、ここまで真似できたよ!と誇らし気だったからです。 真似された側はドリス・ハンフリー。アメリカのモダンダンスの振付家でもあります。真似した側は・・・。実は、誰が真似をしたのか、ハンフリーは手記に具体名を挙げていないのですが、当時の資料から「河合ダンス」というグループの可能性ではないかな?と思っています。 今回は、再現性の高さにクオリティーを感じる「河合ダンス」とハンフリーとの間にある温度差について考えてみたいと思います。スタンスの違いから、アートや表現することに対するまなざしが透けてみえてくるような気がします。

ドリス・ハンフリーと『スケルツォ・ワルツ』

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ドリス・ハンフリー(ドリス・ハンフリーとパートナーのチャールズ・ワイドマン) Wikipediaより
まずはドリス・ハンフリーと彼女の作品『スケルツォ・ワルツ』について。ドリス・ハンフリーはクラシック・バレエに抗して興ったモダンダンスのパイオニアの一人であり、新しいダンス、身体表現を模索し続けたアーティストです。デニショーン舞踊団というカンパニーに所属していたこともある彼女は、舞踊団の世界巡業に同行し、1925年と1926年の2回、日本を訪れています。 画像を削除しました。 この頃ロシアのバレリーナ、アンナ・パブロワを始め、欧米から様々なダンサー、ダンスカンパニーが日本で公演を行い、ダンスの魅力を根付かせていきました。 画像を削除しました。 デニショーン舞踊団のメンバーとして日々を送っていたある日、ハンフリーは、大きなフープを使ったソロ作品を思いつきます。このアイデアについて、「すばらしい可能性があることがわかった。オリジナルなのだ」と彼女は手記の中でふれていて、自分の思いつきにわくわくする気持ちが伝わってきます。…しかしながらキャッチーであればある程、特徴があればある程、真似もされやすいもの。ハンフリーが満を持して上演した『スケルツォ・ワルツ』もその例に漏れず、その後様々なイミテーションが出回ることになります。 https://youtu.be/aTM_IrH7Sx0

「河合ダンス」について

「河合ダンス」。この言葉になじみのある方はあまり多くないのではないでしょうか。「河合ダンス」とは、大正の終わりから昭和の始めにかけて大阪を拠点に活躍したダンスカンパニーのことです。ダンスだけではなく、サキソフォン等の楽器演奏も得意で、大阪、東京、愛知等々、各地の劇場で定期的に公演を行っていました。当時日本で起こっていた少女歌劇ブームとあいまって全国に複数あった少女歌劇の一つとしてみなされることも多く、実際、松竹少女歌劇と一緒に公演を行ったこともありました。 ユニークなことに、このグループのメンバーは殆どが芸妓出身。というのも「河合ダンス」は大阪のお茶屋「河合」の主人、河合幸七郎が「芸妓も新しいことせなあかん!…ダンスや!!」(といったかどうかは分かりませんが)と一念発起で誕生したダンスカンパニーだからです。ちなみにこの「お茶屋」とは、芸妓や舞妓さんのいる酒席の場を提供する店のことで、大阪では殆どの場合、お茶屋自体が芸妓や舞妓を抱えていました。初期メンバーにはそうした「河合」お抱えの芸妓だけでなく、「河合」の女中、河合幸七郎の娘までもが加わっていたそうです。 畳に正座、洋装よりも和装、踊るといえば日本舞踊。今のようにダンスのあることが当たり前、というところからのスタートではないメンバーにとって、ダンスを学ぶということは、見たことも聞いたこともない表現の、その文法を一から身体に叩きこむということでした。全く違うOSをインストールし直すようなものでしょうか。ロシア革命から逃れて日本にやってきたバレリーナを先生に、まさにしごきぬかれながら(割と文字通りびしばしされていたらしい)、クラシック・バレエのメソッドを身につけていきます。河合ダンスの公演プログラムをみると、アンナ・パブロワの『瀕死の白鳥』のようなバレエテクニックを要するものだけでなく、タップやアクロバティックなダンスもあり、活躍する中で、レパートリーの幅を広げていったことがわかります。 画像を削除しました。画像を削除しました。

「まねる」こと・「まねぶ」こと

以上ハンフリーと「河合ダンス」についての紹介をふまえて、「河合ダンス」の「スケルツォ・ワルツ」をみてみると・・・うん、似てる。ヘアースタイルもウィッグでハンフリー風に工夫していますね。女性が髪を切ることや、スカートから覗く脚のみえ具合が、今よりも大きな問題をはらんでいた当時の感覚からすると、相当思い切った姿ですが、ハンフリーに出来る限りなりきろうとしています。 画像を削除しました。 クラシック・バレエという「型」から離れ、新しいダンスを模索していたハンフリー。既にある伝統を「まねる」のではなく、生み出そうとする彼女にとって、新しいということは、これまでにないもの、オリジナルなものだったのではないかと思います。アーティストとしてのクリエイティヴィティーを、いかにオリジナルな作品を創り出すかに求めていたのではないかと思うのです。一方、「ダンスって何?」というレベルからダンスを身につけていった「河合ダンス」のメンバーにとって、ダンスそのものが全く未知なものでした。「どうすればダンスになるの?」という彼女たちにとって、ツアーで日本を訪れる欧米のダンサー、ダンスカンパニーの公演に接することは「ダンスというもの」にふれる貴重な機会だったに違いありません。そしてそこで目にしたダンサー達になりきることが出来れば出来る程、「ダンス」を知らなかった自分たちの身体が「ダンス」を取り込み、未知なる「ダンス」を表現しているように感じたのではないでしょうか。それはそれでクリエイティブなことのような気がします。 「河合ダンス」をみているといつも「まねぶ」という言葉を思い出します。「まねる」ではなく「まねぶ」。CINRAにアップされている「森村泰昌 モリエンナーレ まねぶ美術史」に関連して行われた森村へのインタビュー記事( http://www.cinra.net/tu/morimura-shizuoka/ )の中で、彼は「まねぶ」というテーマに関して「いわゆる模写ともちょっと違います。似せることが目的ではなく、その表現の中に自分が入っていくこと、その体験が重要だからです。思えば僕が現在まで続けている「セルフポートレート」の作品群も、名画や歴史的シーンの中に自分が入っていくもの・・・」と話しています。対象を夢中で観察して、なりきろうとする、その過程で気づきがありステップアップしていくのが「まねぶ」であれば、「河合ダンス」はダンスを貪欲にまねぼうとしていたグループのように思えます。ハンフリーには「いや、まねはまねでしょ!」と怒られそうですが。 余談ではありますが、まねぼうという姿勢の背景には、「型」を重んじて、徹底的に自分の身体に染み込ませる日本の芸能の伝統があるのかもしれませんね。思えばハンフリーと「河合ダンス」の文化的バックグラウンドや、アートを巡る考えの違いをすっとばした暴論ではありますが、以上のことをもやもやと綴ってみました。 【参考文献】 Humphrey, Doris. Doris Humphrey: An Artist First. Centennial ed. Ed. Selma Jeanne Cohen. Pennington, NJ: Dance Horizons Book, 1995. Kallmus, Philippine, Dora. MADAME d’ORA PARIS: KOMAGIKU HEISST DIE KLEINE TANZERIN. DAS MAGAZIN 69 May.1931. 朝日新聞社会事業団 『會舘藝術 第5輯 テレジナ舞踊特別號』(1932年) 海野弘『モダンダンスの歴史』新書館、1999年。 河合幸七郎 「うまいもの」『甘辛』第13號(1952年9月)、18-19頁。 倉橋滋樹、辻則彦『少女歌劇の光芒―ひとときの夢の跡』青弓社、2005年。 藝能史研究會(編)『日本芸能史第7巻―近代・現代』財団法人法政大学大学出版局、1995年。 栃木県立美術館ほか(編)「ダンス!20世紀初頭の美術と舞踊」展カタログ、栃木県立美術館、2003年。 肥田皓三「昭和モダニズムの華 河合ダンス物語」『大阪春秋』第102号(2002年3月)、50-55頁。 森村泰昌『まねぶ美術史』、株式会社赤々舎、2010年。 山口庸子『踊る身体の詩学―モデルネの舞踊表象』名古屋大学出版会、2006年。 渡辺裕『日本文化―モダンラプソディー』春秋社、2003年。
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