内田百閒 作/谷中安規 画『王様の背中』より
版画誌『白と黒』のもとで活躍した対照的な2人の天才版画家、棟方志功と谷中安規。貧乏を友としながら、着るもの食べるものに無頓着な「風船画伯」として内田百閒に愛され、終戦の翌年に49歳で餓死した版画家・谷中安規を紹介します。
貧乏の王様
[caption id="attachment_20165" align="alignnone" width="438"] 自画像By Taninaka Yasunori (Catalogue) [Public domain], via Wikimedia Commons[/caption]
谷中安規(たになか やすのり、 1897〜1946) 通称〈アンキ〉は、1930年代の東京で創作を行っていた版画家・挿絵画家。当時の外国映画などのモダニズムに、土俗性や仏教観をミックスさせた幻想的な作風が独特の魅力を放っています。内田百閒(うちだひゃっけん、1889〜1971)や佐藤春夫(1892〜1964)などの文人たちから支持され、本の挿絵や装丁も手がけました。
明治30年に奈良県の名家に生まれた谷中安規は、複雑な家庭環境のなか、6歳の時に母親を亡くしてしまいます。社会性や生活力にとことん欠けていた安規は、36歳まで住む部屋もなく、友人や知人の家に居候をする風船のような放浪生活を続けていました。腹がへると生米やニンニクをかじり味噌を舐め、コーヒーをひたすら愛するという暮らしぶり。傘の骨を彫刻刀に改造し独学で彫刻を始めた安規は、料治熊太が主宰する版画誌『白と黒』や『版芸術』に作品を発表し注目を集めるようになります。
[caption id="attachment_20168" align="alignnone" width="640"] 『方寸版画 創刊号・幻想集』より[/caption] [caption id="attachment_20167" align="alignnone" width="640"] 『方寸版画 創刊号・幻想集』より[/caption]
文人との共作絵本で評価を高める
「この本のお話には、教訓はなんにも含まれておりませんから、皆さんは安心して読んで下さい。」という、いかにも内田百閒らしい序文からはじまる創作お伽噺集『王様の背中』。共作絵本といった構成で、安規の版画が大きなウェイトを占めています。1934年に刊行され、谷中安規の名を広く一般にも知らしめました。ところで、安規の作品には猫がよく描かれていますが、これも百閒の影響なのでしょうか。
『王様の背中』の復刻版を図書館から借り、スキャナーで取り込んで自家製PDFにした記憶があるので、興味のある方は図書館の端末で探してみてはいかがでしょう。ちくま文庫の内田百閒集成14『居候匆々』にも収録されているので、カラー版にこだわらなければ古本として安価に購入できます。
佐藤春夫のメルヘンを安規の挿画で絵本にした、版画荘刊の『FOU 絵本』は高価な稀覯本として有名。中央公論社の『日本の文学31 佐藤春夫』を底本にした『F・O・U: 谷中安規の本』がKindle版で出ているので、電子書籍でも多少はオリジナルの雰囲気が感じられるかもしれません。ちなみに「fou」とはフランス語で、クレージーという意味。
「風船画伯」として百閒の作中にも度々登場
内田百閒の愛読者なら、「風船画伯」こと谷中安規の名前はお馴染みのものでしょう。かつて旺文社文庫や福武文庫、ちくま文庫から百閒の作品が刊行された際に、薄墨のような黒で小さく載った安規の挿絵は、百閒の文章と程よいユーモラスな世界観を醸し出すものでした。百閒の随筆や小説にも風船画伯として度々登場し、常人には真似できない突飛な行動や貧乏風体で、読者を愉快な気分にさせてくれたものです。
2014年には町田市立国際版画美術館にて、大規模な回顧展「鬼才の画人 谷中安規展 ― 1930年代の夢と現実」が開催されました。谷中安規の作品約300点を制作年順に整理・展示し、1930年代という時代を考える企画でした。映画好きの安規の構図には、光と影の投射やドイツ表現主義の代表作『カリガリ博士』の影響が感じられます。
安規には失恋しては裸で踊り、心に積もる苦しさを晴らしたというエピソードがあります。これは彼の人柄だけでなく、彼の表現が時に肉体を介したものであったことを示しているかもしれません。確かに彼の作品に描かれた人物から、強い身体表現や躍動を感じます。
1945年の東京大空襲でアパートを焼け出された安規は、粗末なバラックを建て、飢えをしのぐために空き地でカボチャを育てていました。翌年の2月には、百閒が自分の安否を気遣っていることを新聞で知り、百閒宅を訪問しています。1946年9月9日、カボチャの実の収穫を待たずに、谷中安規は栄養失調のためにその生涯を閉じました。
谷中安規が、佐藤春夫の紹介で肖像画を描くために内田百閒に初めて会った時に、髪も髭もぼうぼうの姿に絶句したそうです。どこか似たもの同士として、百閒が風船画伯を愛したのも自然ななりゆきだったのかもしれません。