維新派 最後の公演「アマハラ」 フォトレポート & 会見全文掲載

ARTLOGUE 編集部2016/10/17(月) - 15:41 に投稿
維新派 最後の公演「アマハラ」 フォトレポート & 会見全文掲載

主宰の松本雄吉さんが亡くなり、解散を表明している維新派の最後の公演「アマハラ」が、奈良の平城宮跡にて開催しています。

平城宮跡は20年以上前に、主宰の松本さんが友人から紹介されて以来、そこでの公演を望んでいましたが、これまで許可が下ませんでした。今回、東アジア文化都市に招へいされたことにより、とうとう実現されましたが、それが維新派の最後の公演となるというは運命的でもあります。

今回の「アマハラ」は、2010年に上演した「台湾の、灰色の牛が背のびをしたとき」の改訂版でもありますが、松本さんは「新作と見まがえるような再演をする」と言っていたように構成は大きく変わっています。

舞台は、「海なし県に船が来たら面白いんとちゃうか」と、草原に巨大な廃船が作られました。維新派最大級の大きさの舞台はそれ自体がアート作品と言えるほどの存在感があります。

内容は20世紀初頭、繁栄を求めてアジアの島々を目指して進出していったものの、第二次世界大戦によって全てが滅んでしまった日本人たちの記憶が、船・航海という時間の流れのメタファーのような舞台上で展開されます。
金色に輝く草原に向かう廃船の演出は圧巻で、まるで維新派のそれぞれが新しい大海原への旅立ちを表しているようにも思えます。

ダンスでもあり、歌舞でもあり、演劇でもあり、レヴューでもあるような、「 ヂャンヂャン☆オペラ」と名付けられた維新派唯一の表現は、夢の中の出来事のように抽象的でありながらも、強烈な夢を見たあとのように心を揺さぶられます。また、毎回、舞台の外には維新派屋台村が作られ飲食などが楽しめ鑑賞者を公演前から別の世界へと連れていてくれます。公演を鑑賞後は屋台村で余韻に浸りながらお酒を呑むのも醍醐味です。

維新派最後の公演「アマハラ」は、当日券が毎回20枚程度出される予定なので、ぜひお見逃しのないように。

 

※ フォトレポートの下に8月19日に行われた「アマハラ」公演記者会見の記録を全文掲載しています。

 

維新派 最終公演 「アマハラ」

会  期:2016年10月14日(金)~10月24日(月) 
会  場:奈良市 平城宮跡(東区朝堂院) 
上演時間:約120分
当日券:各日、開演の1時間前より20枚程度を販売予定
オフィシャルサイト:http://ishinha.com/SP2016/

 

「アマハラ」フォトレポート 

 

維新派  「アマハラ」公演記者会見 全文

日 時:2016年8月19日(金) 14時~15時半

登壇者
内橋和久 (うちはし かずひさ)音楽・演奏
平野舞(ひらのまい)役者。「アマハラ」演出部
金子仁司(かねこひとし)役者。「アマハラ」演出部
山﨑佳奈子(やまさきかなこ)制作。
司会 小堀純(こぼり じゅん)編集者・ライター

 

公演にいたる経緯:
山崎:6月に亡くなった主宰の松本は、元々奈良が好きで、昨年は曽爾村で公演を行い、平城宮跡での公演も以前から望んでいた。松本の平城宮跡との出会いは、20年以上前に知人に紹介され、大変気に入り、折にふれ訪れていた。平城宮跡で公演ポスターの撮影を行ったり、2007年には遷都祭でパフォーマンスを行うなど、公演の可能性を探っており、ようやく今年、東アジア文化都市に招へいされ、実現の運びとなった。
2015年の公演「トワイライト」が終わってから、10月に下見を行い、劇場位置や向きなどを決めた。その頃に、2010年に上演した『台湾の、灰色の牛が背のびをしたとき』を改訂することに決め、その構想中に死去した。松本が亡くなってから、公演を行うことについて、カンパニー内で議論を重ねた。維新派の公演において松本が担ってきた役割は多岐にわたり、松本の代わりに誰かが演出を行う、ということは不可能で、そう考えれば、松本がいない状況で、公演をキャンセルするということも素直な意見としてあがった。ただ、46年活動してきた維新派は、多くの方が関わり、多くの観客に観ていただいていた。維新派という団体の終わりにけじめをつけるという意味では、松本が亡くなったからと言って、公演をキャンセルすることはないのではないか、とも考え、最終的には、松本が劇場プランを完成させていたことや、松本が書きかけていた構成表を参考にしながら、維新派最後の公演を行う判断をした。出演者・スタッフそれぞれがいろんな思いを抱きながら、脚本や演出など、初めてのことに手探りながら、公演を成立させることに邁進している。

 

Q 舞台模型を船にしたのは、どういう発想?

山崎:奈良時代、平城宮跡は、遣唐使の出発地であり、鑑真が来日するなど、シルクロードの終着点として大陸に向けて開かれており、海のない奈良県に船を作るということが、歴史的にも造形的に面白いのではないか、と松本は考えたようだ。

 

Q維新派が再演をすることは珍しいが、どういう経緯でこの作品に至ったのか。また、演出部の平野、金子の現在の役割とは?

山崎:東アジア文化都市からの招へいということと、平城宮跡という場所が、『台湾の、灰色の牛が背のびをしたとき』の作品テーマと通ずると考えた。再演とは言いつつも、「新作と見まごうばかりに書き換える」と松本は1月に奈良で行われた、企画発表会で語っていたので、完全な再演ではない。
平野:今回は、役者の中から数人で、演出部を構成して、彼らが演出を担うということで、公演を行う決断に至った。維新派は、シーンごとに作っていくので、それを役者一人一人で割り振って、分担して作品を作っていく。
金子:前回と比べて、劇場と場所が違うので、それが一番意識するべきこと。脚本としては、全くできていないので、各シーンの担当者が、松本が病室で遺した創作ノート(通称 松本ノート)を頼りに、それぞれが台本を書き、構成を考えている。

 

Q 内橋さんと松本さんの出会いについて、また、どのようなやりとりで創作していたのか?

内橋:80年代前半に松本さんと出会う。最初は維新派の公演ではなく、吉増剛造さんとのセッションだった。その後、当時一緒にやっていた山本公成さんに連れて行かれた。維新派が暗黒舞踏をやっていた時期で、そこから、自分の演劇体験が始まる。1989年に、扇町ミュージアムスクエアで『スクラップオペラ』を上演したとき、町田町蔵(現町田康)が音楽監督をするつもりだったが、まったくできないので手伝う。90年の『echo』から本格的に参加。
松本さんは、当時、音楽のことは全く知らず、90年は全部4拍子だった。
リズムに言葉をはめてみることから始まり、特にそれ以外は指定がなかった。維新派において、作曲の過程は、まず台本をもらって、読みながら曲をつける。時々は、曲を先に作り、それにセリフをつける、という逆のパターンもあった。松本さんは、作詞もやっていたこともあった。

 

Q 内橋さんにとっての松本さんの印象は?

内橋:松本さんは、言葉の人で、自分の場合は、言葉で説明されるとわかりにくい。しかし、松本さんは、自分に合わせた話し方をしてくれる人だった。とにかく優しく、そして厳しい人。去る者は追わないタイプ。いい加減にやる人間は団体から切られてしまう。ギャラが安ければ、仕事の質も下げるのか?経済的な理由ではなく、関わる理由をきちんと求めた。若者と一緒にやることも好意的にとらえていて、だからこそ、若い人間が集まってきていた。
91年に汐留で『少年街』をやったときのことを覚えているのが、作品を作ることだけでなく、食事のことなど日々の生活のことをきちんとやる。ご飯の味がまずくて、作っていたスタッフを帰らせて、自分で作っていた。みんなが脱いだ靴をそろえていたのも松本さんで、自分が気になるからやっているだけで、それを誰かに強制はしない。
金子:2015年の『トワイライト』のときに、舞台の整地作業を先頭きってやっていて、しかも一番うまかったのが、松本さん。
小堀:芸術監督であり、現場監督でもあると言える。なにごとも率先してやる。

 

Q 再演だが、内橋さんが、今回の公演で変える箇所は?

内橋:全く新しく作るシーンについては、全く新しい曲を作るし、同時に、新しい場所・劇場でやる、ということで言えば、同じシーンでも曲も変えることも考えている。逆に、前回で良いと思える曲はベースを変えずにやることもありうる。

 

Q 全部で何シーンあるのか?メインとなるキャラクターはいるのか?

平野:今回は全部で10シーン。前回の「台湾の、~」と同じように、数人のメインキャラクターが登場するが、松本の構成表では、かなり構成が変わっており、松本の意図を汲みながら考えている。一人の人間ではなく、多数の人間の視点が出てくる。

 

Q松本さんが担っていた演出をするときに、松本さんの大きさを実感するか?また、松本さんから、具体的にどのような影響を受けた?

平野:演出部は、役者6人、スタッフ1人で、構成しているが、それだけ人数がいてもかなり大変。自分は維新派しか知らないので、自分が良し悪しを判断するのは、松本との会話や言葉が基準になる。松本の不在が、やればやるほど浮き上がってくるだろう、と想像はしていたが、20年以上役者でやってきたこととは違う頭で、松本の思考を探ることになる。
金子:松本はExcelで台本を書いていて、自分も初めてExcelを使ってみて、その作業を通じて、理にかなったことをやっていた、ということを実感している。空間をどうみるかということがわかってきた。維新派の台本は“連”で構成されるが(楽譜のようなもの)、Excelだとそれが整然と並べられ、イメージでなく、説明書のように松本の意図を他人に伝えるのに適している。そして、まずは自分に対しての説明書であったのだと思うようになった。また、台本は読むだけで成立するのではなく、実際稽古でやってみて新たな発見がある。

 

Q内橋さんが、自分の音楽が、舞台になることの魅力はありますか?

内橋:あんな大きな野外の舞台で自分の曲が流れる機会がなかったから、とても魅力的。家でヘッドフォンをしながら作った音を、実際に野外の舞台で聞いたときに起こる変化は大きい。家で作ると作りすぎてしまって、余白が無くなる。それは、出演者だけでなく、お客さんにも同じで、想像する余白が狭まる。最小限で、一番有効な方法を考えて曲作りをしている。松本さんは、音楽に対して、明確なイメージがあるわけではなく、具体的な指示を受けたことがない。ただ僕の曲を楽しみに待ってくれていた。だからこそ、今までは松本さんに向けて、ある種冒険的なチャレンジをすることもあったが、それができなくなり寂しい。今回は役者が相手なので、自分にはあれこれ言いにくいだろうから、作曲するうえで少し気をつけている。

 

Q 松本さんが今回の奈良公演以降、やりたいと言っていたことはあった?

山崎:同時に並行して作品を手掛けることができない不器用な人なので、いつも目の前にある次の公演の話しかしなかった。

 

Q アマハラというタイトルはいつ決まったのか?松本さんがつけたのか?

山崎:当初は、同じタイトルで考えていたが、政治的な問題で主催者からNGが出たので、変えなくてはならなかった。カンパニー内で話し合い、数ある候補の中から選んだ。

 

Q 脚本はどの程度まで完成している?

平野:半分程度。しかし、脚本から公演に成立させるまでの過程が、特に松本の才能、演出力が顕著にあらわれることを実感しているので、作品全体の完成度と考えると、半分以下なのかもしれない。

 

Q 解散の時期は決まっているか?ヂャンヂャンオペラを継承することは考えているか?

山崎:来年、海外公演のオファーがあるのでそれが叶えば、カンパニーはそこまで継続。もし、決まらなければ、年度内をめどに解散予定。
平野:ファンの目線で言えば、ちょっとずつ形を変えながらでも続いていってほしいが、所属メンバーとしては、松本雄吉が不在だと、それが本来のヂャンヂャンオペラと呼べるのかは疑問。自分の中では、それは難しいのではないかと感じている。
小堀:維新派大全の出版会で、松本さんは「一人一人が維新派」と語っていた。ヂャンヂャンオペラを継承するのではなく、発展させていくなら松本さんが望んだことかもしれない。

 

Q 秋以降に、偲ぶ会を予定と聞いたが、時期は決まっているか?

小堀:別会場で偲ぶ会は行わず、今回の公演期間中に、屋台村の一角に献花台のようなものを設けることで、それに代える。ただ、報道関係者の方々には、なるべく公開ゲネプロにお越しいただくことでお願いしたい。
山崎:訃報を出した時点では公演するかどうかも決まっておらず、偲ぶ会を設定するつもりでいたが、公演をするとなった今、公演そのものが松本を偲ぶ場になると考えている。

 

Q 松本さんの遺されたノートや話したことで、今回の公演でキーになったことは?

平野:松本のノートには、一見するとなんのことかわからない言葉も多くあるが、その中でも多く出てきているのは、“旅”や“ここ”というワード。これらは、新しい言葉ではなく、これまでも過去作品などに多用されており、松本が一貫してもっていたテーマ。やはりそれがキーワードになるのだなと再認識した。

 

Q 広い平城宮跡内で、この場所を選んだ理由は?

山崎:今回の開演時間は、松本が遺した構成表に記載されている通り、舞台奥の生駒山に、夕日が沈む時間を意識して設定した。そういう意味で生駒山や周りの風景が見えやすい場所。また、人工的な建築物、工作物が見えにくいエリアが望ましい。舞台の床面に、草地も生かしたいので、それらの条件が一番合致した場所。

 

Q 現場での稽古はいつから?

山崎:9月15日から劇場の設営を始め、17,18日頃から、稽古を開始予定。

 

Q 松本さんの病気が発覚してから亡くなるまでの話を聞きたい。

山崎:昨年11月上旬、「レミング」再演の稽古中に、がんが発覚した。
「レミング」の演出をおりることも考えたが、本人の希望で「レミング」の初日があけてから治療を開始することになった。
入院は12月14日。この日から「PORTAL」の稽古が始まる予定だったが、12月は脚本と演出助手を担当することになっていた林慎一郎さんに稽古場を任せ、治療に専念させてもらった。
稽古に合流したのは年明け1月5日。ただし、「レミング」時とはちがい、入院し治療を受けながらの参加だったため、稽古場には病院から通い、日に3~4時間しか稽古に参加できなかった。小屋入りしてからも同様に、病院から通った。
「PORTAL」初日は見届けたものの、その後体調が悪化し、「PORTAL」の地方ツアーには演出としては参加していない。京都公演のみ観劇した。
3月中旬からは回復傾向にあり、役者が公演に向けて稽古を開始したこともあって、頻繁にメールでアイデアのやりとりをしたり、病院で打ち合わせなどをしていた。4月下旬頃からは体調が悪い日が多くなり、ポスター撮影のために下見に平城宮跡に訪れたり花見に外出したりもしていたが、5月18日のポスター撮影が最後の外出となってしまった。亡くなる一週間ほど前に容態が急転し、当日に悪化、最終的にはがんの進行、転移による呼吸不全といった状態で亡くなった。

 

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