「朝鮮通信使に関する記録」がユネスコ「世界の記憶」に登録されました。豊臣秀吉らの壬辰・丁酉の倭乱(文禄・慶長の役)の後、日朝関係の修復が軌道に乗ったのは、1604年(慶長9)に「探賊使」という名目で京都に入った松雲大師が1605年3月、徳川家康と伏見城で会見したおりからでした。そして、1607年(慶長12)から1811年(文化8)におよぶ朝鮮通信使の具体化の前提が京都で始まりました。
使節団のメンバーは政治家・軍楽隊ばかりでなく、学者・医者・画家のほか、歌舞音曲の名手なども参加しました。曲馬の上演は徳川家光の求めで行われましたが、その後恒例化するなどその交流の幅は広がりました。
京都の宿館は大徳寺のほか本囲寺や本能寺でしたが、京都の学者・文人・僧侶・医師らとの交わりには注目すべきものがあります。京都五山との関係では、対馬の厳原にあった朝鮮外交の事務を管掌する以酎庵に、寛永年度から京都五山の碩学の僧が派遣され、1866年の廃止までのべ126人が赴任しています。
また近江(滋賀県)には、徳川家康が関ケ原の戦いに勝利し凱旋上洛する際、縁起が良い道と認識され、参勤交代の諸大名に通行禁止を命じ、将軍以外では唯一、朝鮮通信使の通行が認められた「朝鮮人街道」が現存しています。徳川幕府の朝鮮との修好をいかに待ち望んだかが伺えます。朝鮮人街道沿いの守山、近江八幡、彦根には多くの通信使との交流の息吹が遺されています。
このたびの「京・近江の朝鮮通信使」展では、京都、滋賀を中心にした善隣友好の証しを展示いたします。そして、「朝鮮通信使」が歴史的経験に裏付けられた平和的・文化的遺産であり、その源流には「誠信の交わり」があったことを読み解き、それを伝えることが現代に課せられた義務と使命であると考えております。
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