コーヒー文化と中東 コーヒーハウス・ペインティングからイスラム革命へ

現王園セヴィン2017/08/12(土) - 13:33 に投稿
コーヒー文化と中東 コーヒーハウス・ペインティングからイスラム革命へ

一日をスタートする一杯のコーヒー
夕方、ホッと一息する時に飲むコーヒー

私たちの身近にあるコーヒーの起源はあまり知られていません。


禁断の実


私たちが今飲んでいるコーヒーは、コーヒーノキの果実の中にある種子を使って作られた飲み物です。最初はコーヒーノキの種子ではなく、葉の部分や実の殻を煎じたりさまざな方法で飲まれていました。現在私たちが飲んでいる方法を一般化したのはなんとイスラム神秘主義者スーフィー教団の人たちだったのです。

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_The City of the Sultan ... Second edition_(Julia Pardoe, 1838).  スーフィー教団が祈りの儀式として踊っている様子。_

 

イスラム神秘主義者(スーフィー)はどうしてコーヒーを飲んでいたのでしょうか?
多くの信者は昼間普通の仕事に専念し、日が沈むと集会所に集まり夜通し眠らずに祈りの儀式を行なっていました。眠らずに祈りそしてトランス状態になるために、コーヒーの覚醒作用に頼っていたと考えられています。

名前の由来のカフワ(Qahwa)はアラビア語で「欲を削ぐもの」という意味です。「食欲を削ぐ」飲み物という意味でワインを呼ぶのに使われていたカフワですが、コーヒーが「睡眠を削ぐ」目的で飲まれるようになると、コーヒーをカフワと呼ぶようになりました。
最初は聖なる飲み物として貴重に扱われていましたが、徐々に一般市民にも広まるようになり、コーヒーを飲む場所(今でいうカフェ)が中東地域の主要な都市で賑わうようになりました。

 

コーヒーは禁止?


最初はイスラム神秘主義者(スーフィー)の聖なる飲み物が一般の人々に広まると、政府や宗教指導者たちは黒い飲み物を警戒するようになりました。その理由は様々だったようですが、大きく二つに分けることができます。①市民のカフェでの集いが反政府の集会に発展する恐れ②カフェでは賭博や売春といったイスラム教にとって不道徳なことが行われていた。政治的そして宗教的な理由からメッカやエジプトでは、カフェを取り締まる動きがありました。しかしコーヒー反対政策はどれも失敗に終わり、人々からコーヒーの楽しみを奪うことはできませんでした。

 

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Christian herald and signs of our times(1896) コーヒーの健康への影響が騒がれることもありましたが、それでもコーヒー大好きな人々はカフェでのひと時の楽しみをやめることはありませんでした。

 

カフェから広まった新たな文化


中東地域で広まったコーヒーそしてカフェの習慣は新たな文化を生みました。カフェで文化人が集い思想、哲学、そして政治について熱く語り、そして新たな文化が生み出される。それってヨーロッパだけの話だと思いませんか?
コーヒー文化発祥の地である中東地域でもカフェは文化人の熱い集会場だったのです。

1930年代からテヘラン(イラン)の同じ場所にあるカフェ・ゴルレザイイェ(cafe golrezaei)は、小説家サーデグ・ヘダーヤト(صادق هدایت Sādegh Hedāyat、1903年2月17日 - 1951年4月9日)や女流詩人フォルーグ・ファッロフザード(فروغ فرخزاد Forūgh Farrokhzād、1936年1月5日 - 1967年2月13日)などが集まっていました。今でも行列ができるこのカフェは、テヘラン観光のあまり知られていない穴場です。

 

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また、イランではカフェの壁に、古来から伝わる神話やペルシャ文学を代表する詩集「王書」の物語を描いた「コーヒーハウス・ペインティング」が古くからあります。カフェ文化とともに発展したコーヒーハウス・ペインティング。時には政治的な意味合いをもち、イランの1960年代の芸術集団サッガーハーネ(Saqqa-Khaneh)にも影響を与えたと言われています。

 

コーヒーハウス・ペインティングと立憲革命


そもそもカフェの壁に物語のワンシーンを描くようになる背景には、カフェで物語を独特のリズムにのせて歌う風習がありました。
日本でいう落語を想像してみたらいいかもしれません。多くの場合一人の話家が物語をリズムに乗せて語りました。

 

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Bettany, G. T. (George Thomas), 1850-1891

 

この語りの補助的な役割として、物語の代表的なシーンが壁に描かれるようになりました。
「コーヒーハウス・ペインティング」の多くは、日本の銭湯絵師のように職人さんが描いていました。アカデミックなアート界からは一線を置いた立場にいたコーヒーハウス・ペインターたちですが、彼らの作品はイラン立憲革命の波が押し寄せてくると共に重要になりました。

19世紀後半、イランを治めていたガージャール朝は幾度もロシアやイギリスをはじめとした大国との戦争で敗北。その度、イランの経済は国外の支配下に置かれるようになりました。国の政策が西洋化すると共に、物価が高騰することへの国民の不満は募り、各地で政府に対する反乱が起こりました。

他国の思い通りの政策を進めるガージャール朝に対抗すべく集まる一般市民を団結させたものに、このコーヒーハウス・ペインティングが挙げられます。
立憲革命が盛んになる1906年から1911年にかけて、テヘランをはじめとする各地で一般市民がカフェで会合を開き、ペルシャの偉大な歴史を讃える「王書」を描いた「コーヒーハウス・ペインティング」のもとで、いかにイランを外国の侵略から守るか話し合いました。

なぜ「コーヒーハウス・ペインティング」は国民の団結をより一層強める効果があったのでしょうか?その答えは、「王書」が誕生した背景にあります。

 

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「王書」の代表的なワンシーン

 

この迫力のある絵は、西暦980年ごろから30年近くかけて詩人フェルドウスィー(فردوسی Ferdowsi、940年 - 1020年)によって書かれたペルシャ民族叙事詩「王書」のワンシーンです。フェルドウスィーが「王書」を書いていた当時、ペルシャ(現在のイラン)における公用語がペルシャ語からアラビア語に置き換えられつつありました。このままではペルシャ語そしてペルシャ文化が衰退してしまうという時代だったのです。
詩人フェルドウスィーは、「王書」をアラビア語の使用を最小限に控えペルシャ語で書くことで、ペルシャ語を再び生き返らせました。彼は「ペルシャ語の父」として今でも慕われています。

イラン国民は立憲革命へ向けて、かつて王書の詩人フェルドウスィーがペルシャ語を生き返らせた時のようにイランを取り戻すべく団結したのです。


イスラム革命と芸術運動


さて時代は変わり1960年代、低迷しつつあったコーヒーハウス・ペインティングに再び注目が集まります。1950年代後半、パフラヴィー朝(1925年ー1979年)は、ガージャール朝がそうであったように、自国よりもアメリカをはじめとした他国の利益を優先させた政策を進めていました。西洋化するイランの政策、経済、そして文化は、イラン存続の危機として不安視されるようになっていました。
今のイランを知っている人には信じられないかもしれませんが、パフラヴィー朝の西洋化政策の一環として、イスラム教徒の女性が髪や肌を覆うヒジャブを禁止していました。

この時代、イラン全国でモダンとは?近代化とは?なんなのか様々な考えが飛び交いました。モダニズムとは西洋の模倣ではないと主張し、次から次へと新たな作品を発表した芸術集団「サッガーハーネ」は、「コーヒーハウス・ペインティング」のセカンド・ウェーブとして知られています。
「サッガーハーネ」のアーティストは、コーヒーハウス・ペインターとは異なりイラン国内やヨーロッパのアカデミック界で経験を積んだ芸術家でした。彼らは、「コーヒーハウス・ペインティング」をはじめとした、イランの忘れ去られている伝統や風習に再びスポットライトを当てることで、イラン独自のモダニズムにチャレンジしました。

 

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「サッガーハーネ」を代表するアーティスト、パルヴィーズ・タナーヴォリーの作品《Poet and Nightingale》(1974)

 

脱西洋の波は芸術や文学にとどまらずやがて、イスラム革命(1979年)が勃発し反米国家が誕生する結果をもたらしました。

さてこの芸術集団「サッガーハーネ」の作品、イラン国内で開催されるオークションやクリスティーズ(Christie's)・ドバイのオークションにて高額で取引されているのです。
次回は「サッガーハーネ」の作品をはじめとした、今ホットな中東アートオークションの現状をお届けします。

 

 

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