田原さんが死んでしまいました。あまりにも突然に。
銀座での個展「Les Sens」の初日を迎える直前、
肺がんで病床にいて、そこから指示を出していたらしいです。
個展は予定通りはじまり、2017年7月9日(日)まで続きますが、ご本人はそれを空の彼方から見ることになりました。
「Les Sens」で展示された手。世代を超え、人種を越えた手。その手が赤ちゃんの小さな手を包んでいる。子供に未来を託す、やわらかくも強いメッセージが込められた作品。あらゆる刺激にまみれ、挑戦し、老いにさしかかり、やさしさが増した、写真家の視点である。
「Les Sans」会場風景
人の想いを写し 自然を映し ひかりを移す
風があり薫りたち 静寂に音が響き 肌がふるえる
温度のある優しさと鉱物の輝き
私は「私という感覚」のみによって存在しているのか?
理解出来ることや、出来ないことが
渾然と浮遊し不思議な平衡感覚の上に私個人が乗っかっている。
安定的な重力と不安定な触覚が覚醒するとき、
思考がある一定の規則からはみ出してしまうことが度々起こる。
表現しようとする意思を働かせたとき、過剰な想いと言葉が
「不明瞭な意味」を生み出そうとして私のなかを駆け巡る。
光りを摑み取りたいという傲慢な欲望が私を支配する。田原桂一
田原桂一。公開されているプロフィールをまとめると、このようになります。
木村伊兵衛写真賞やフランス芸術文化勲章シュヴァリエ、パリ市芸術大賞など数多くの賞に選ばれてきた写真家。1971年に渡仏してから写真家としての活動をスタートし、光をテーマにさまざまな作品を発表してきた。1977年には「窓」シリーズでアルル国際写真フェスティバル大賞を受賞。また、「カルティエ(Cartier)」や「ドン・ペリニヨン(Dom Pérignon)」など世界的ブランドのブランディングコンサルタントとして数多くの広告や企画を手掛け、2014年9月にはパリにあるヨーロッパ写真美術館にてフランスでは過去最大規模の展覧会、2016年何必館・京都現代美術館にて個展、2017年3月にはプラハ ナショナルギャラリーにて、36年のあいだ未発表であったダンサー田中泯とのフォトセェッション作品「photosynthesis1978-1980」を展示、写真表現の原点回帰として蘇らせた。日本だけにとどまらず世界を舞台に写真、映像、ブランディング、建築と多方面に活動し続けてきた。
モンサンミシェル北庭 モンサンミシェル、フランス、2000年
修道院の庭のためのインスタレーション:白と黒の大理石の小石
いい人でした。楽しくてふざけた人でした。東京で、京都で、パリで、さんざんお付き合いをさせてもらいました。遊びは高級でセンスが高かったですが、キワモノも多かったです。ワインを飲みながら、血液を固めた腸詰めをうまそうに食べていました。
僕が田原さんと毎日のように連絡を取り合っていたのは、1990年代後半の2年間です。株式会社ワールドにクリエイティブ開発組織を作り、田原さんをアートディレクターとして迎え、さまざまなデザイン開発に取り組みました。 田原さんはパリ在住で、アトリエはセーヌ川沿いにあり、アシスタントが2名いました。当時、制作に励んでいたのは「Pierre」と名が付いた写真作品です。石を磨いて溶剤を塗り、感光させて定着させ、仕上げに金箔を施して仕上げていました。
この作品にどのくらいの価値があるか、当時の僕にはとんとわかりませんでした。妙な事をやっているなあ、そう思いました。
「トルソー」Emulsion photographique sur pierre, Feuilles d’or et de platine (石の上に写真乳剤、金箔やプラチナ)
100x100cm 1996
1990年代の後半は、アパレル企業も開発を精力的にやっていた時代です。ファッションに夢があり、消費者がお店の空間デザインを楽しむようにもなっていました。インテリアデザイナーという職業がもてはやされはじめた時期でもありましたね。クリアな空間が旬でした。僕が関わったプロジェクトでも「INDIVI LIFE」(クリエイティイブ・ディレクター田山淳朗さん、インテリアデザイン片山正通さん)、「OPAQUE」(ファサード妹島和世さん、内装植木莞爾さん、グラフィック八木保さん)は白とガラスの無機質な空間で、そこに商材を並べました。彩りを足したい「AQUAGIRAL」には、飲食空間のデザインをやっていた間宮吉彦さんを初めて物販に起用しました。
「旬」は移ろいます。「次」を探るため、田原さんに登場してもらいました。
田原さんに、最初に訊ねた事を覚えています。
「次のトレンドは何ですか?」
田原さんは迷うことなく答えたのでした。
「金と銀」。
僕たち開発チームには、意味するところが不明でしたが、さまざまなデザイン開発を進めるうち、わかるようになってきたのは不思議なことでした。
田原さんは、どこを見ていたのでしょう。そのへんのデザイナーやアートディレクター(と称する)人には到達できない場所を見ていた気がします。
「OPAQUE」のファサード修正計画を田原さんと進めた時のことです。
次のトレンドは「金と銀」らしい。とはいえ一般客向けのブティックです。修正計画も「もうちょっと販促的な打ち出しができるような仕組みを」という課題でもありました。しかしそこは田原さん、「専門家にちょいと来てもらおう」と、青木純さんと面出薫さんを連れて来たのです。一流は一流を呼ぶのです。仲良しチーム。青木さんとは貧乏な時代、一緒に住んでいたという特別な縁があるそうです。ふたりは当時を懐かしがっていました。
田原さんは着るものも食べるものも贅沢でした。とはいえ高級志向というのではありません。良いものには価値がある。良いものと触れ合うことで良さがわかる。鑑識眼は自分に投資してこそ磨かれる、というスタンスです。
カルティエやドンペリニョンの仕事を任され、当時はダンヒルの仕事もしていました。ヨーロッパの老舗ブランドの仕事はこのような視点を持ってこそできるのですね。ワールドではハイエンドブランド「L’ange Noir」を立ち上げ、骨董通りに店を作りました。
アンジュノワール(青山骨董通り)
ディレクション/プロデュース、商品開発も担当。
セーヌ川の照明に携わった件を訊ねました。
「光のエコー」 パリ・フランス 2000年
パリ市依頼の公共空間アート(常設)としてサンマルタン運河地下水道内に制作。プリズムによって生まれる虹の光が音の響きと共に石壁を伝う。この洞窟をバトー・ムーシュが通る。
田原さんはプジョーの小型車でパリの石畳を飛ばします。下町のレストランに入り、血の腸詰めを食べながらワインを飲みます。何度かチャレンジしましたが、血の腸詰めだけは食べられませんでした。田原さんは狩猟民族の血を引いているのではないかとさえ思いました。
「四次元の柱」 東京 汐留・日本 2000年11月
汐留地区開発工事現場におけるライトスケープ。
室町の割烹へも連れて行ってもらいました。夏と秋が出会う端境期の10月、松茸とハモの鍋です。京都らしい旬。本当においしかった。
先斗町のお茶屋は喫茶店代わりに使っていました。京都人は一花街一茶屋と決め、浮気をしてはなりません。一軒のお茶屋に縁をつないで馴染みとするのです。五花街のうち、先斗町は吉冨久でした。予約もせずお茶屋の玄関をくぐります。女将さんは家族が帰ってくるように迎えます。カウンターでちょっと飲んで、たわいもないことを喋って、みんなで笑います。
先斗町の吉富久
田原さんは最初から芸術家を目指していたわけではないということです。高校は啓光学園、しかもラクビー部でポジションはロック。花園の全国大会で優勝するような強豪です。その後、祖父の影響を受けて写真家を目指したそうです。
11PMにも出演していたそうです。大橋巨泉、愛川欽也、藤本義一は覚えていますが、田原さんの記憶はありませんね。
僕はワールドを辞めたあと、いろいろな縁がつながり、小説を書くようになり、 2006年に最初の小説「こいわらい」(マガジンハウス)を出しました。
「こいわらい」マガジンハウス2006年。主人公の和邇メグルは20歳の女子大生。生まれながら小太刀を使う術を授かっているが、それは500年前の因縁にかかわり、現代の京都にも謎の敵が現れる。メグルは智恵と勇気で敵を倒しながら、自らの生きる意味を見出していく。
2010年にNHKでドラマ化。東京国際映画祭の原作マーケットでは日活からプレゼンされた。
この原稿を最初に読んでくれたのが田原さんでした。
「京都人にしたら文句はいっぱいあるけどな」と言いながらも、ほめてくれました。それは僕の背中を押し、小説を書くようになったのです。あとがきには田原さんとの関わりを書きました。
その後、田原さんと会う機会は減っていました。噂もあまり聞かなくなっていました。そんな2015年、代々木公園駅前の割烹で出くわしたのです。カウンター6席しかない小さな和食のお店。店に合わせたような、小さくてかわいらしい女性の板前さんが腕を振るうお店です。
「松宮、何しとんねん」
「こらこそびっくりです。お久しぶりです。」
そんなことを言いながら、次の店へご一緒しました。
青山学院大学前のビルの奥。小さな看板でしたが、入ってみるとクラブでした。銀座か赤坂か。青学の前にこんな店が隠れてるの?
田原さんはなんでも知っているのです。
その後は大学で教えたり、新たな作品を発表しました。山本耀司や田中泯とのコラボですね。
Photosynthesis 1978–1980 featuring Min Tanaka
プラハナショナルギャラリー
田原さんは抜群の先生でした。
クイエイティブ開発における発想の原点、デザインやアートと向き合う姿勢、挑戦することの大切さを教えてもらいました。
この数年間はデザイン活動を休止し、芸術道を究めていたように思えます。
ひょっとしたら、最後の残り火を燃やしたのかもしれません。
尽きない好奇心と行動力。
その田原さんが死んでしまいました。今も信じられません。
合掌
「光」をテーマに世界的に活躍を続ける写真家の展覧会
田原桂一「Les Sens」
ポーラ ミュージアム アネックス(東京・中央区銀座)では、「光」をテーマにフランスをはじめ、世界的に活躍を続ける写真家 田原桂一の展覧会「Les Sens」を2017 年6 月9 日(金)から7 月9 日(日)まで開催いたします。
田原氏は木村伊兵衛写真賞、フランス芸術文化勲章シュヴァリエ、パリ市芸術大賞など数多くの賞を受賞しています。その表現方法は、写真にとどまらず、彫刻や多様なインスタレーションなど、様々な領域にわたります。
本展「Les Sens」では、2015 年にフランス リヨンで発表され、話題となった手をモチーフにした写真作品「Les mains」シリーズを日本で初めて展示します。また、床一面に砂を敷き詰め、その上にレーザーでプリズムを表現するなど、空間全体でお楽しみいただける会場構成となっています。
会 期:2017 年6 月9日(金)~ 7 月9 日(日)※会期中無休
開館時間:11:00 - 20:00 (入場は19:30 まで)
入場料:無料
会 場:ポーラ ミュージアム アネックス(〒104-0061 中央区銀座1-7-7 ポーラ銀座ビル3 階)
アクセス:東京メトロ 銀座一丁目駅 7 番出口すぐ / 東京メトロ 銀座駅 A9 番出口から徒歩6 分
JR 有楽町駅 京橋口から徒歩5 分
主 催:株式会社ポーラ・オルビス ホールディングス
URL:http://www.po-holdings.co.jp/m-annex/
*ダンサー田中泯とのフォトセェッション作品「photosynthesis1978-1980」はプラハ ナショナルギャラリーにて、2017年8月27日まで長期にわたり開催中です。