大英博物館 国際共同プロジェクト  北斎-富士を超えて-

ARTLOGUE 編集部2017/10/17(火) - 04:48 に投稿

稀代の浮世絵師、葛飾北斎

代表作「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」は、世界で最も知られる作品のひとつです。その構図の斬新さ、デザイン性、一瞬を捉えた魅力の数々を、人々は愛してやみません。この名作を残した北斎とは、どのような人物だったのでしょうか。大英博物館との共同企画である本展では、日英の第一線の浮世絵研究者が、北斎の人物像や精神性を解き明かします。

北斎は70年に及ぶ画業の中で、さまざまな画法を学び、森羅万象を描き出しました。風景や動植物のような目に見える世界だけでなく、晩年には龍や鳳凰、聖人などを題材にして、日常を超えた想像の世界を肉筆画で表現しています。画家の筆遣いがそのまま画面に残る肉筆画には、北斎の卓越した技術や色彩の美しさ、溢れ出す才能の全てが色濃く表れています。

本展では、北斎の晩年30年に焦点を当て、肉筆画を中心に世界中から約200点の作品が集結。北斎が「富士」の高みを超えて、自らが希求した「神の領域」に到達すべく描き続けた軌跡に迫ります。

 

70歳を過ぎて生み出した、代表作「富嶽三十六景」

北斎にとって富士山は、大自然の象徴であり、超絶なるものの象徴でした。すなわち、崇高なる神であり、超えるべき目標でした。いつしか北斎は、富士山に自身の人生を重ね合わせていたように思われます。1820年代後半、妻の死や自身の病気、孫の逸脱行為による経済的困窮など、さまざまな苦難を経験した北斎にとって、「富嶽三十六景」シリーズは画家としてのキャリアを復活させるきっかけとなりました。

 

神の領域への軌跡

19歳で勝川春章に入門し、翌年デビューを果たしました。それから70年、絵師として神の領域を目指す北斎の苦闘が始まります。35歳頃に勝川派から離脱した後は、狩野派、琳派の作品にとどまらず、中国画や西洋画を学び、自流に取り入れていきました。70歳になってから「富嶽三十六景」「諸国滝廻り」に代表される風景版画のシリーズを発表。75歳で「画狂老人卍」と改名して後は、肉筆画と絵本・絵手本を中心に画業を展開し、90歳で没しました。

 

娘・応為も北斎を凌ぐ絵師だった!?

北斎に「美人画ではかなわない」と言わせた程の力量を持っていた北斎の三女、お栄(応為)。応為の肉筆画は少なく、推定作を含めても10点も現存しません。本展では応為の作品を3点展示します。

80歳を過ぎて訪れた土地、小布施

小布施の豪商・高井鴻山の招きで、北斎は弘化2年(1845、86歳)にお栄と共に小布施に旅行し、小布施の祭屋台の天井絵として一対の「濤図」を描きました。北斎は、「富嶽三十六景」シリーズを完成させる前から波の描き方を研究しており、「濤図」は、北斎の波の集大成とも言える作品です。2枚の絵を並べると道教の陰陽を対比させた「太極図」が浮かび上がって見えます。太極とは、道教の教えで全ての根源を意味します。北斎は「波」だけではなく、「宇宙」の成り立ちをも描こうとしていたと考えられています。

 

天があと5年命をくれたなら、真の絵師になれたのに…

北斎の晩年の作品では、龍や獅子、鳳凰、鷹などの生き物、そして力強いエネルギーにあふれた伝説上の人物や聖人が生き生きと描き出されます。北斎の数え88歳から90歳で亡くなるまでに描かれた肉筆画の数々は、北斎が信仰と芸術の崇高な領域に達したことを示しています。北斎は亡くなる直前に「天があと5年命をくれたなら、真正の絵師になれただろうに」という言葉を残したと伝わっています。死を前にしてもなお、画家として理想を追求し続けた北斎。彼が目指した神の領域とはいかなるものだったのでしょうか。

 

大英博物館 国際共同プロジェクト  北斎-富士を超えて- フォトギャラリー 

 

※当サイト内の文章・画像等の内容の無断転載及び複製等の行為は法律で禁止されています。
開催期間
-
画像
大英博物館 国際共同プロジェクト  北斎-富士を超えて-
アクセス数
120
1
121