「池田龍雄 アヴァンギャルドの軌跡」のギャラリートーク
スピーカー
川浪千鶴
会場
会期
2011年4月29日~6月12日
展示について
第二次世界大戦後、焼け野原となった東京では、混乱のなかから新たな芸術を模索する若き作家たちが続々と登場しました。かれらの実験的な活動は「アヴァンギャルド(前衛)芸術運動」と呼ばれ、そのユニークな個性は、その後の日本の美術に大きな影響を与えています。 その中でも特筆すべき作家が池田龍雄(1928~)です。池田は兵役を経て、故郷・佐賀から上京、1948年に多摩造形芸術専門学校(現多摩美術大学)に入学して間もなく岡本太郎らが主宰した「アヴァンギャルド芸術研究会」を知り、前衛芸術運動へと傾倒していきます。1950年代には社会の事象に目を向けて、絵画におけるルポルタージュの可能性をさぐり、風刺のきいたペン画で一躍注目を集めます。さまざまなグループや運動に加わりながら旺盛に自作を発表、芸術の総合化を目指した「制作者懇談会」では映像制作などにも携わります。1960年代後半からは概念芸術に関心をもち、パフォーマンスも行うようになりました。現在でも、旺盛に新作を発表しつづける一方で、自身の活動をふりかえっての執筆や講演もさかんに行い、戦後日本美術史の証人ともなっています。 初の大規模回顧展となる本展では、日本の戦後美術を走りつづける池田龍雄の仕事を戦後から近作まで網羅し、アヴァンギャルド芸術の歩みとともに多面的にご紹介しました。
アーティストについて
池田龍雄 略年譜 1928(昭和3)年 佐賀県西松浦郡二里村(現・伊万里市二里町)に生まれる 1943(昭和18)年 第13期海軍飛行予科練習生として鹿児島海軍航空隊に入隊 1945(昭和20)年 茨城県霞ヶ浦で特攻訓練中の8月15日、17歳の誕生日に終戦を迎える 1946(昭和21)年 連合国軍の対日占領政策により、教職不適格者として佐賀師範学校を追放される 1948(昭和23)年 画家を志し、多摩造形芸術専門学校(現・多摩美術大学)に入学 学校にはほとんど通わず、岡本太郎や花田清輝らが始めた「夜の会」を核とする「アヴァンギャルド芸術研究会」に参加。 1949(昭和24)年 「世紀」の絵画部に参加 1950(昭和25)年 「プボワール」を結成 1951(昭和26)年 「NON」を結成 1953(昭和28)年 「エナージ」を結成、グループで「青年美術家連合」の結成に参加 1954(昭和29)年 ペン画による初個展(養清堂画廊・東京)を開催 1955(昭和30)年 「制作者懇談会」を結成 1957(昭和32)年 「舞台実験室」を結成 1964(昭和39)年 「アンデパンダン’64展」で実行委員長を務める 「人間座」の公演『吸血鬼の研究』(寺山修司作)で舞台美術を担当 1967(昭和42)年 「制作者懇談会」メンバーで映画『怨霊伝』を制作 1969(昭和44)年 松本俊夫監督の映画『薔薇の葬列』に出演 1971(昭和46)年 松沢宥による「音会」に参加 1972(昭和47)年 《ASARAT橄欖環計画》を浅間高原で一年間にわたり行う 1973(昭和48)年 《梵天の塔》のパフォーマンスを始める 《BRAHMAN》シリーズの制作を始める 1985(昭和60)年 「池田龍雄の世界展」開催(池田20世紀美術館/静岡) 1988(昭和63)年 《BRAHMAN》シリーズ完結 1997(平成9)年 「ねりまの美術‘97 池田龍雄・中村宏」展開催(練馬区立美術館/東京) 2010(平成22)~ 「池田龍雄 アヴァンギャルドの軌跡」展開催 2011(平成23)年 (山梨県立美術館、川崎市岡本太郎美術館、福岡県立美術館) 現在、東京都練馬区在住
スピーカーについて
川浪千鶴 高知県立美術館企画監兼学芸課長。福岡県立美術館学芸課長を経て、2011年7月から現職。専門は日本の戦後から現代美術、美術館教育、アートマネジメント。「アートの現場・福岡」シリーズ(1998~2009年)、「菊畑茂久馬と<物>語るオブジェ」展(2008年)、「池田龍雄 アヴァンギャルドの軌跡」展(2011年)などを企画。