見向きもされなかった?近代建築
この度、大阪の近代建築のガイドブック『大大阪モダン建築』(青幻舎)が7回目の増刷となり、新装版として発売されることになりました。大阪の建築書としては異例のロングセラーとなった本であり、僕は編集、著作で参加させてもらいました。近代建築は大阪のアート&カルチャーとも深い関係があるのでその背景をご紹介させてもらいたいと思います。 初版は2007年なので約10年前のことです。今でこそ、大阪は明治・大正・昭和初期のモダン建築が、中心部にたくさんあるということが知られるようになりました。しかし、当時は、大阪に多数の近代建築があることを知っているのは都市計画や建築史の研究者や一部の愛好家に限られており、一般の方はほとんど知りませんでした。その理由として、中心部にあるものの「街並み」として感じるくらい「並んでいない」、「集まっていない」からです。 もちろん、中之島の大阪市中央公会堂、大阪府立中之島図書館、日本銀行大阪支店のように、並んでいたり集まっていたりする場所もあります。しかし、それ以外は集積しているというより、点在しているといった方が正確です。最寄り駅もバラバラですし、専用ガイドブックがなければ、とても近代建築を巡ることはできなかったと思います。 大阪の近代建築は、神戸の旧居留地のように、行政の資本や都市計画で建てられたものはほとんどありません(実は大阪にも現在の大阪市西区にある川口に居留地がありましたが、神戸に移動したため当時の建築は現存せず、日本聖公会川口基督教会1軒のみが面影を伝えています)。基本的には民間の資本で建設されたものであり、1つの区画に集中していないし、様式も揃っていません。だから、大阪の近代建築が貴重で価値があると誇る人はほとんどいませんでした。「大大阪」時代と近代建築
「大大阪」という言葉も普通に使われるようになりましたが、一般的でありませんでした。改めてご説明すると、1925(大正14)年に大阪市が周辺の町村を合併し、第二次市域拡張にともない呼ばれた通称で昭和初期くらいまでを指します。人口211万人となり、東京を抜き日本最大、シカゴに次ぐ世界第六位の都市となったのです。そして、1923(大正12)年の関東大震災の影響もあり、防火性、耐震性を備えた最新の鉄筋コンクリート造の近代建築が多く作られました。1932(昭和7)年に同じく市域を拡張した「大東京」成立まで、日本最大の都市であり、モダン文化が花開きました。 『大大阪モダン建築』は、明治から戦前までの近代建築を収録しており、特に大大阪時代に絞ってはいませんが、明治の建築も大大阪に繋がる建築、大大阪時代にあった風景、として大きく捉えています。ただし、いわゆる大大阪時代に建てられた近代建築が明治よりも多く残っているのは確かです。もちろん古さの問題もありますが、理由は鉄筋コンクリート造のため空襲や地震に耐えたこと、エレベーターや空調などの近代的設備がついていたため、現在でも改修して利用可能であることが大きいでしょう。 2005年はちょうど大大阪成立から、80周年にあたり大大阪時代の文化や近代建築に注目が当たり始めていました。とはいえ、建物の老朽化や都市中心部にありながら容積率が低く経済効率が悪いため、約80年前に建てられた建築は年々解体されていました。長期的な不況が建築の建て替えを遅らせていたのですが、景気の回復が再び解体を加速させていたのです。そのためにも近代建築の良さを出来るだけ早く広報する必要がありました。 『大大阪モダン建築』を出版してから、一般の人々にも近代建築が注目されるようになり、街歩きを行う人も増えました。近代建築が古臭いものではなく、少しアンティークで趣のある建物として人々の認識が変わってきたのです。その結果、お洒落なレストランやカフェなどの店舗が入居するようになり、古いという建築にとっては通常マイナスな要素がプラスへと転換したターニング・ポイントになったといえます。それによって、解体を免れたり、外観が保存されたりした建築もあり、一定の役割を果たしたといえます。連続ドラマの影響
とはいえ、大大阪時代や当時の近代建築が全国区になったのは、やはりマスメディアやNHKの連続ドラマ(連続テレビ小説)の影響が大きいでしょう。2000年代の半ばになり、連続ドラマでは、『芋たこなんきん』(2006年度後期)、『ウェルかめ』(2009年度後期)など、近代建築を頻繁にロケ地として使うようになってきました。 その後、2010年度に入り、近代建築だけではなく、本格的に大大阪時代を扱うようになってきたのです。コシノ3姉妹の母親、小篠綾子をモデルにした、『カーネーション』(2011年年度後期)では「ファッション(洋装)」がテーマとなり、大阪や阪神間の文化が描かれています。『ごちそうさん』(2013年度後期)では、「食と建築」がテーマとなり、地下鉄御堂筋線の工事に従事した大阪市役所の建設課で働く旦那の先生として、建築家の武田五一をモデルとした建築家が登場しています。 また、ニッカウヰスキーの創業者、竹鶴政孝をモデルにした『マッサン』(2014年度後期)では、「洋酒と広告」がテーマとなり、寿屋(現サントリー)のある大阪の中心街、船場の近代建築、芝川ビルのオーナーであった芝川又四郎をモデルにした実業家も登場します。実際に、竹鶴政孝の大阪時代の借家を貸し、ニッカウヰスキーに出資もしていた人物です。まさにこれらは大大阪時代の文化そのもといえます。 さらに最近評判となった、大同生命の創業者の一人である実業家、教育者の広岡浅子をモデルにした『あさが来た』(2015年度後期)では「金融と教育」がテーマとなり、明治維新から大正時代までの近代化する大阪が舞台となっています。これも広義の大大阪時代といえるでしょう。最後の方に、大同生命肥後橋ビルや大丸心斎橋本店など、多くの大阪の近代建築を設計するW・M・ヴォーリズ(William Merrell Vories、1880年10月28日 - 1964年5月7日)がモデルの建築家を登場させています。 それ以前のテレビドラマやバラエティ番組では、大阪の戦前の都市文化や近代建築を取り上げることはほとんどなく、道頓堀や難波、天王寺などの繁華街や下町文化が主でした。多くの漫才師が全国区になったこともあり、大阪人や大阪文化に対するイメージは偏っていたといえます。モダン文化の息づいていた大大阪や近代建築ブームは、大阪のイメージを少なからず変える機会になったといえます。 その波及効果は現在でも続いています。最近でも『あさが来た』の五代友厚役でブレークした、ディーン・フジオカさんが、『大大阪モダン建築』を読んで、ラジオで紹介して下さいました。それ以前にも、小説家の万城目学さんは、『プリンセス・トヨトミ』(文藝春秋)の参考文献に本書を挙げ、あとがきに書いて下さっているだけではなく、その後自分も近代建築にはまり、『ぼくらの近代建築デラックス!』(文藝春秋)という本を上梓されています。大大阪のアール・デコ-装飾美術の発展
『大大阪モダン建築』で書きたかったのは、建築だけではありません。大大阪時代は、アール・デコが世界的に流行した時期であり、大阪のアートやデザイン、写真、ファッションなど文化全般を見直す鍵となるテーマあったことも大きいのです。それが連続ドラマに幾つもの切り口を与えている要素でもあります。 アール・デコは、1925年に開催されたパリ万国装飾美術博覧会、正式名称は「現代装飾美術・産業美術国際博覧会」(Exposition Internationale des Arts Décoratifs et Industriels modernes)における「アール・デコラティフ(Arts Décoratifs)」から取られたとされています。植物的な文様を取り入れた、アール・ヌーヴォーと比較して、アール・デコは機械(マシン)のイメージや幾何学的な文様を取り入れたところに特徴があり、アート&デザイン全般に影響を与えました。 特にアール・デコ建築は、本場ニューヨークやパリのみならず世界中に流行して、今日でも街並みの基盤になっている地域が多いのです。トロピカル・デコと呼ばれるマイアミの色鮮やかで曲線を多用した街並みは代表例でもあります。現在ではアール・デコがインターナショナル・スタイル(国際様式)やモダニズム建築以前の世界的に普及した様式として研究が進んでいます。そして、その地域特有の条件と混ざり、それぞれ独自のアール・デコ様式を生み出しているのです。 日本でもほとんど時間差なく流入した初めての西洋の建築様式といえるかもしれません。日本で一番アール・デコが流行した都市はどこかと言われたら、間違いなく大阪であるといえるでしょう。関東大震災後に多く採用された鉄筋コンクリート造にもその要因はあります。 鉄筋コンクリート造は、それ以前のレンガ造と違って、意匠と構造が分離しています。外壁はひっかき跡が残ったようなスクラッチタイルやテラコッタが採用されました。それはまさに、アール・デコ建築の代表的な組み合わせです。つまり、耐震、防火の要請と、商業的な華やかさや装飾性を兼ねるのに、アール・デコ様式はぴったりと大阪にはまったのです。 そして、大阪でも「大大阪デコ」、「船場デコ」とでも呼べるような独自のスタイルが築かれていたと考えた方がいいでしょう。大阪の船場と言われる中心部の区画は近世の秀吉が作った東西の「通り」と南北の「筋」の道路を中心としたグリッド状の町割が中心となっています。町屋が並んだ街並みが、大きな資本のある北部の北浜の金融街、車や地下鉄のために拡幅工事をされた堺筋や御堂筋沿いを中心に近代建築が建てられていきました。まだ交通網として存在感のあったか川や運河沿い、水辺の近代建築も多く残っています。その立地上の条件が大阪らしい装飾性を残しているといえます。 その装飾性は、現在でも近代建築の意匠、彫刻、レリーフなどに残っており、建築や街に付随したアートといってもいいでしょう。残念ながら、解体、建て替えされた近代建築でも、装飾やアートは積極的に再利用されているのも特徴です。近代建築とアート
しかし、大大阪ブーム以前から、大阪の近代建築を利活用していた業種として、ギャラリーの存在を忘れることはできません。2013年に閉店してしまいましたが、老松通りという骨董・画廊街の近くにある大江ビルヂングには番画廊という34年間営業していた現代アートのギャラリーがありました。かつては「バンパクオンド(万博音頭)」と言われ、番画廊、ギャラリー白、ONギャラリーという著名な3つの現代アートの画廊が固まっており、そこで行われた展覧会から、ベネチア・ビエンナーレのアペルト部門に選ばれ、海外のキュレーターが見に来ることもありました。 近代建築の良さを戦後、積極的に見出していたのはギャラリーであるといえます。現在でも近代建築には多くのギャラリーが入居しています。その理由として、アートを飾るには、現代的な設備よりも、雰囲気のよい空間や、天井の高さなどがある近代建築の方がより利用価値が高いからだといえます。 また、大阪府立現代美術センターが主催して毎年開催していた現代アートの芸術祭「大阪・アート・カレイドスコープ」では、2007年には「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ」や「瀬戸内国際芸術祭」のプロデューサーと知られる、北川フラムさんを迎えています。北川さんは「大大阪に会いたい。」をテーマに掲げ、大阪府内の近代建築を利用して現代アートの展覧会を行っています。それは都市と建築、アートがより深く接近する時代を象徴的に表していました。 その流れは、大阪府市官民一体の水辺の博覧会「水都大阪2009」に引き継がれました。その際、大阪市庁舎や大阪府立中之島図書館で現代美術家のヤノベケンジさんの展覧会が行われています。その後、大阪・アート・カレイドスコープは、街全体を現代アートのカンンヴァスにするという、「おおさかカンヴァス推進事業」に刷新され、毎年ヤノベケンジさん、明和電機、増田セバスチャンさんなどユニークな活動を行っている審査委員を迎え、他の芸術祭とは違うユニークな作品が展開しています。 また、大阪府現代美術センターの事業は、江之子島にあった近代建築、旧大阪府立産業技術産業研究所旧館をリノベーションした大阪府立江之子島文化芸術創造センターに引き継がれ、中之島西側地域の活性化の拠点となっています。 2007年から約10年が経ち、解体、または建て替えられた近代建築も多くあります。今回新装版にするにあたって、解体、改修、建替、名称変更などを追記するに留め、内容自体は改訂しているわけではありません。それは時代によって変わる街の風景を記憶に留めておくためでもあります。しかし、今回ご紹介したように、解体されるだけはなく、改修されたり、再現されたりするなど、新たな活用の形態も進んでいることがわかるでしょう。 今後も活用のされ方は変わっても、『大大阪モダン建築』は、大阪のアートやカルチャーを育み文化を発信する装置として重要な役割を果たしていくでしょう。「大大阪モダン建築」とアート&カルチャー 関連マップ
参考文献 橋爪紳也監修、高岡伸一、三木学編著『新装版 大大阪モダン建築』(青幻舎)2016年旧wordpress.posts.ID
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