アート小説 『ラピスラズリの音色』 第1話「悩める若き三代目とフルーツサンドウィッチ」

高松恵里佳2016/10/17(月) - 16:05 に投稿
アート小説 『ラピスラズリの音色』 第1話「悩める若き三代目とフルーツサンドウィッチ」

ステンドグラスの窓は少し開いていて、淹れたてのふわりと立ち上がった珈琲の香りがかすかに漂っていた。
スターバックスやファストファッションにばかり慣れ親しんできた葵は店に入る勇気が持てず、人気のない路地を行ったり来たりしていた。
神田神保町、古書店が立ち並ぶ大通りを奥に入った路地に、純喫茶ラピスラズリはある。黒い屋根に壁一面に這う蔦、昔ながらの波ガラスのステンドグラスと重厚感のある店構えは、確かに誰にでも入りやすい店とはいえなかった。
路地を何往復かした後、葵は心を決めた。
やれることはすべてやらなくちゃ。美味しい珈琲を飲みにきたっていう軽い感じでいけばいいのよ。
葵は蔦に囲まれた深い青紫色のドアを勢いよく開けた。
ドアチャイムの澄みわたるような高音が響き、カウンターに座っていた女性がゆっくりと振り向いた。
ベロア素材の青のワンピース、上品な黒のハイヒールが店の褐色の木のカウンターや椅子と一体化するようにマッチしていて、エプロンをしていなくてもすぐに店の人間だと葵にもわかった。何より、女性の端正な美しい顔立ちで、噂の美人店主だとすぐにわかった。
「いらっしゃいませ」
くつろいだ様子で珈琲カップを手にする女性の姿を見て、葵は思わず店に入ろうとする足を止めた。
「あっ、ごめんなさい。まだ開店前だったんですね」
「ちょうど開けるところだったんです。お気になさらず。お席にどうぞ」
そう言うと、純喫茶ラピスラズリの店主、坂岸真知は席を立った。
サービス業特有のこなれた笑顔を見せるわけでもなく、かといって冷たい視線を投げかけるでもない淡々とした調子で話す真知の対応に、葵の気持ちは混乱し、落ち着かなくなっていた。
やっぱりここに来たのは間違いだったかも。妙に緊張しちゃう。純喫茶に入ったのも初めてだし、どうも美人と話すのは気後れしちゃって苦手なのよね。
葵はカウンターの後ろに並ぶテーブル席に腰を下ろすと、メニューにろくに目も通さずブレンドコーヒーを注文した。
「ランチタイムは稼ぎ時なのに、うちは午後1時開店なんです。朝が苦手な怠け者なもので」
真知がお冷をそっと葵のテーブルに置きながら、ささやくような声で言った。葵は「あはは」と小さく笑いながらも、かがんで距離の近づいた真知の顔に見入っていた。
旦那はやっぱりこの人が目当てでよくここに来ているんだろう。柔らかそうな白い肌にバランスのいい鼻、それになんて綺麗な目をしているんだろう。くすみのない瞳って言うのかな。女性の美しさは目の大きさじゃなくて目の綺麗さで決まるって何かで読んだことがある。
葵は細目がちな自分の目や、小柄で愛嬌だけで乗り切ってきたような自分の容姿に思いをはせながらも、カウンターの中で丁寧に珈琲をドリップする真知の姿を眺めていると、次第に冷静さを取り戻していった。それは純喫茶ラピスラズリの醸し出す気負いのない雰囲気にも起因していた。
温かみのある木造の家具や、ステンドグラスから差し込む柔らかい光、さりげなくテーブルに置かれた一輪の季節の草花が客人の気持ちをほぐしてくれた。歴史を感じさせる空間でありながら、押しつけがましさがなく、自由な空気が流れていた。
カウンター横には、木で造られた細長い箱の形をした年代物の楽器が置いてあった。側面には植物の葉をモチーフにした装飾がふんだんに施されている。葵はアンティークのオルガンかな、とうっとり眺めていた。
葵の視線に気づいた真知は楽器に歩み寄ると、閉まっていた蓋を開けた。蓋の内側には、花々が咲き乱れる湖のほとりに建つ石造りの城の絵が描かれていた。
「わあ、綺麗」葵は思わず感嘆の声を漏らした。
「チェンバロの一種でヴァージナルっていうんです。フェルメールの絵に度々登場する楽器なんですよ」
真知はそっと鍵盤の上に指を下ろすと、ヴァージナル特有の暖かみのある丸い音色を響かせながら、軽やかな短い曲を弾いてきかせた。
葵は初めて聞くヴァージナルの旋律に聴き入った。それは強く響くような音でありながら、耳元で優しくささやかれているような音色だった。
ヴァージナル音楽にも癒され、心がほっとするような淹れたての珈琲を味わうころには、彼女なら何か知っているに違いないと葵は思い初めていた。
「あの、実はうちの主人がよくこちらにうかがってまして。堀江書店の」
真知はガラス食器を磨く手を止めると、葵に視線を向けた。
「堀江さんの奥様でしたか」
「はい、主人がいつもお世話になっています」
「いえ、こちらこそいつもありがとうございます」
「今日はちょっとお聞きしたいことがありまして。こちらで最近、主人が何か悩み事を言うようなことはなかったでしょうか?」
真知のきょとんとした表情をみて、葵は慌てて続けた。
「急に変なことを言ってごめんなさい。主人はこちらのお店を大変気に入っていて、まちさんのことも。あっ、主人がいつもそう呼んでいるもので、私もそう呼ばせていただいてもいいですか。それでこちらでは本音を漏らしているかと思いまして。私にはお前にはわからないと言って何も教えてくれないんです。歳も三つ下で大して違わないのに、会社で先輩、後輩の関係だったせいか今でも私には頼ってくれなくて」
真知はカウンターの中の年季の入った丸椅子に腰を下ろすと、穏やかな表情で葵を見つめた。透きとおるような眼で見つめられると、葵は心の中に抱えているものを彼女にすべて聞いてもらいたいような気持ちになって、堰を切ったように喋り始めた。
「ご存知かもしれないんですが、古書店としてやっていくのが難しくなってきたので、ブックカフェとして新たに始めようという話になったんです。店舗のほうもすでに二週間前から工事に入っています。主人はうまくいけば古書店街の活性化にもつながると、やる気に溢れていたんです。あんな楽しそう彼、初めて見ました。隣の御茶ノ水界隈の大学生達を再び神保町に取り戻すぞとか息巻いて。
それが今週に入ってから急に、やっぱり昔のまま古本屋としてやっていきたいと言い出したんです。理由を聞いても言わないし、今は悩まし気な顔をして、早く工事を止めよう、店の外観は絶対にいじらせるなと言うばかりで」
そこまで一気に話すと葵はうつむき、小さく息を吐いた。
「確かにこちらでも堀江さんはブックカフェを始めると楽しそうに話していらっしゃいました。ですが、知っているのはそこまででして中止されたいと思っていらっしゃるのも今知りましたし、特に何か悩みをお話しされることもなかったです」
顔を上げた葵は一瞬がっかりした表情をみせたが、すぐに
「そうですか。変なこと聞いちゃってごめんなさい。急に込み入った話をされて困っちゃいましたよね」と言って笑顔をみせた。
「お役に立てなくて、ごめんなさい。私、無口なほうでして。喫茶店の主人としてはだめだなとは思うんですが、私がもっと軽快に話すタイプの人間でしたら、堀江さんももっといろんなお話しをしてくださったかと思うんです」
真知は表情を変えずに、でも申し訳なさそうに小声になりながら頭を下げた。
「そんな、まちさんが謝らないでください。まちさんとは初対面ですけど、なんだかとても話しやすいです。ちゃんと聞いてもらえる安心感というか。それにこんな美人な方に美味しい珈琲を淹れてもらえるだけでも主人も私も幸せ者ですよ」
そう言って葵は屈託のない笑顔をみせた。店に入った当初あった緊張はいつの間にか消え失せていた。
帰り際、葵は深々と頭を下げた。
「あの人、ひとりで悩みを抱えていられるタイプじゃないんです。もし店のことで相談してくるようなことがあったら話を聞いてあげてもらえますか。あの人の愚痴話、全然面白くないんですけどね。ブックカフェはあの人の実現可能な夢みたいなものになりつつあって、どうにか叶えてあげたいんです」
窓の中を通り過ぎていく葵の後ろ姿をぼんやりと店内から見送りながら、真知は呟いた。
「あんな奥さん、私にもほしいな」


葵との約束を果たす機会は、それからすぐにやってきた。
葵がラピスラズリにやってきた数日後、今度は堀江一哉が勢いよく青紫色のドアを開けた。
「まちさん、ブレンドください」
堀江は常連らしい迷いのない足取りでカウンター中央の椅子に腰を下ろした。ボーダーのTシャツの上に薄手のジャケットを羽織った、勤め人には見えないスタイルが堀江の童顔を引き立たせ、まるで大学生のように見える。
堀江は真知がラピスラズリを前オーナーから受け継いで間もない頃からの馴染み客だ。いつも15時頃にふらりとやってきて、携帯をいじりながら珈琲を一杯飲む。夏場はそれに練乳かき氷を追加するのがお決まりだ。
店内には堀江とランチ終わりの珈琲を啜るサラリーマンの二人組がいるだけだった。堀江は童顔を気にして去年から生やし始めた短い口髭の端を触りながら難しい顔をしている。いつもなら何かしら真知に話しかけてくるのだが、その日はただじっと座って珈琲を待っている。
「かき氷はいいんですか」
真知は堀江の横からそっと、英字のラピスラズリの刻印が入った珈琲カップを差し出した。
「まちさん、もう10月だよ」
「そうでした。今年の夏はよく召し上がってらっしゃったから、いつもお食べになるような気持ちになっていました」
真面目な顔をしてそう答えると、真知はトレードマークである青いワンピースを揺らしながらカウンター内に戻っていった。今日のワンピースはスカートに細いプリーツが入っていて、より真知を大人っぽく見せている。そんな真知を堀江は目で追った。
まちさんは見た目と違って少し天然なのかな。いつも真顔だからか、考えがいまいち読めない。彼女の笑った顔をオレ見たことあったかな。まあ、愛想笑いとかしないのもいいんだけど。
しばらくするとサラリーマン達がご馳走さまーと言いながら、店を出ていった。真知がテーブル席の食器を片づけていると、ふいに背後で堀江の視線を感じた。
堀江は振り返るようにして、店の中を眺めていた。
「オレさ、まちさんが店主になる前のこの店に来たことがないんだ。店を引き継いだとき、どれぐらい手をいれたの?」
「基本的な家具はそのままですよ。装飾品は少し減らしましたが。先々代、先代とフェルメール愛好家でして壁にフェルメールの複製画が飾ってあったんですが、お客様の中には絵の世界に思考を邪魔されたくない方もいらっしゃるかなと思いまして外してしまいました。それに、何より私が影響を受けてしまいそうなので」
「まちさんで三代目?」
「はい。先々代と先代は親子ですが、私は関係ない外の人間です」
堀江は昔、父親からラピスラズリは学者をやっていたインテリのおじさんがひとりでやっていると聞いたことがあったのを思い出した。まちさんがどうしてこの店を継ぐことになったのか経緯が気になったが、踏み込んで聞くのはやめておくことにした。
堀江達、街の人間にとって真知は気づいたら街の片隅で静かに座っていた、という印象だ。その美貌で目立ってはいるが。
「そっか。まちさんとオレは三代目仲間だったんだ。だったら同じ老舗の店を継ぐものとして、まちさんならわかってくれるかな。ほら、前から話していたブックカフェなんだけど、やっぱりやめようかと思っているんだ」
真知はカウンターに戻り、洗い物をシンクに置くと、数日前と同じように丸椅子に腰かけ、相談者の顔をじっと見つめた。
「3年前に父親が急死して、オレなんだか呆然としちゃってさ。勤めていた会社を辞めて店継いで、なんとなくやり過ごしてきたけど、経営も難しくなってきてこのままじゃだめだなって。古書店街を盛り上げたい気持ちもあってブックカフェを始めようと思ったんだ。でも先週、探し物をしていて親父の書斎の引き出しを開けたら、奥からこれが出てきたんだ」
堀江はジャケットの胸ポケットから紙のようなものを取り出した。カウンターテーブルの上に一枚ずつ並べていく。
それは堀江書店の前でにこやかな笑顔で立つ男女の写真だった。
モノクロの写真が1枚、カラー写真が6枚。
写真が新しくなるのと半比例して男女は年老いていく。デジカメで撮ったと思われる一番新しそうな写真では年老いた男がひとりで写っていた。背景にあるレンガ造りの店の外観だけは、ほとんど変わりがない。
真知は立ち上がり、連作ともいえる7枚の写真を眺めた。
「ご両親ですか」
「そう、親父と母さん。母さんが亡くなったあとの最後の1枚は親父がひとりで写ってる。写真の日付を見ると、どうも5年に一度撮影していたみたいなんだ」
堀江は迷子になった子供のような寂しそうな目で写真をじっと見つめている。
「家族3人や親戚一同で正月や何かの記念日に店の前で撮った写真もいっぱいあって、それはアルバムに入れてあったけど、この7枚だけは机の奥に大事そうにしまってあった。二人だけの思い出なんだと思う。そんな写真を見ていたら、親父と母さんは二人で長い年月を積み重ねて、あの店を守ってきたんだなって改めて思い知らされた。それなのにオレは古書店としての歴史なんてそっちのけにして新しいことを始めようとしていて、本当にそれでいいのかわからなくなってしまった」
堀江も真知もしばらく黙って写真を見つめていた。
「いなくなってしまった大切な人の想いを後で知った時に込み上げるこの切なさは、なんでしょうね」
「まちさんも経験あるの」
「ええ、何度か」
二人は視線を写真に落としたままだった。
「堀江さん。アートは好きですか」
「え?」
真知からの唐突な質問に堀江は面食らった。
「あ、いや。学生時代はサッカーばっかりで、大人になってからも営業の仕事に追われていて、美術館とかにもほとんど行ったことないよ」
「古い写真で思い出したんです。今、千葉市美術館でやっている小川信治の展覧会によかったら行きませんか。私は先週行ったんですが、知人からもらったチケットが1枚余ってまして」
そう言うと真知はカウンター奥にあるドアを開け、チケットを手にして戻ってきた。
「よかったらどうぞ。気分転換になると思います」
「え、でも、アートには本当馴染みがないし」
真知は戸惑う堀江の手を取って、そっとチケットを渡した。堀江は真知に手を握られたことにドキッとして体を固くした。
「とても不思議な世界をみせてくれる現代アーティストです。そんな構えなくても大丈夫です。美術館にめったに足を運ばないような人でも楽しめる展覧会ですから」
堀江は、じゃあ、もらっておくよとしか言いようがなく、断りきれずにチケットを受け取った。
どうして急に美術館を勧めてきたんだろう、まちさんはやっぱり変わっていると首をかしげながら堀江は帰っていった。


ブックカフェへの移行工事は一旦ストップされた。工事の関係業者にはちょっと変更がでるかもしれないから少し待ってくれと、堀江が平謝りしたが、納期に間に合わなくなるとみんな怒りを露わにしていた。それでも堀江は答えを出せずにいた。
家で葵の困惑した顔を見ているのが辛くなった堀江は、近くの漫画喫茶やパチンコ屋に出かけることが増えていた。パチンコ屋で千円札を出そうとした時、財布に入れていた真知からもらったチケットがふと目に入った。
「今、この街にいても息がつまるだけだ。遠出するのも悪くないな。行ってみるか」堀江はパチンコ屋を出て御茶ノ水駅へと向かった。
電車やモノレールを乗り継ぎ、千葉市美術館に着くころには小雨が降り始めていた。
千葉市美術館は中央区役所との複合施設で、美術館自体は7階と8階にある。何も知らずにきた堀江は区役所側の入り口から入ってしまい、迷いそうになった。ただでさえ空気感の違う知らない街の雰囲気に気後れしていて、妙な心細さを感じていた。
美術館行きのエレベーターを探していると、立派な白い円柱が並ぶ天井の高い空間にでた。白い円柱を大理石の土台が支え、床にはモザイクタイルが装飾されている。舞踏会でも行われていたかのような場所だ。設置されている説明書きによると、ネオ・ルネッサンス様式のこの空間は、昭和2年に建てられた旧川崎銀行千葉支店をそのまま復元保存したものだった。今はホールとして利用されている。
ホールには堀江、ひとりだった。堀江は中央に立ち、高い天井を見上げた。
昔、銀行員としてこの場所で働き、怒ったり喜んだりしていた人達がいたんだろうな。その人達の気配は今はもう全くない。時の経過って、結局なんなんだろう。
堀江は今日ここに来たことは正解だったと感じ始めていた。心がざわざわとしていた。
「小川信治 あなた以外の世界のすべて」展の会場に足を踏み入れた堀江は、小川信治の作り出す奇妙ともいえる不思議な世界に圧倒された。
写真のような精巧さで描かれた左右対称の不可思議な外国の街並み。一見モン・サン・ミッシェルのように見えるが、様々な国や時代の建物のパーツを組み合わせて作られた架空の風景。いるはずの中心人物だけが抜き取られたレオナルド・ダ・ヴィンチやフェルメールなどの名画達。
小川信治の作品は、西洋絵画や観光名所などを超絶な描写力を駆使して完璧に模写したうえで改変し、見る者に違う世界の可能性をみせてくれていた。
堀江はキリストだけがいない弟子だけの最後の晩餐と、弟子達が不在で、中央でキリストだけがぽつんと座っている最後の晩餐の2枚の絵画の間に立ち、目を瞬かせていた。
この作品達は一体なんなんだ。なんだ、この感覚は。自分が何も考えずに信じていたものが壊れていくような感じだ。
展覧会では絵画作品だけでなく、複数のメディアを組み合わせたインスタレーションや、映像作品も公開されていた。
その中のひとつ、区切られた部屋の壁一面に映し出された映像作品「干渉世界」に堀江は釘づけになった。
巨大な古い写真のような画像が3枚並んでいる。どこかの異国の地の風景、こちらを見つめるようにして立ち尽くす人物たち。
次第にそれぞれの画像から人物や建物、風景の一部分のみが真横の画像にスライドするように移動したり、上や下にはみ出して消えていく。その動作をゆっくりと繰り返しながら、それぞれが干渉し合いながら変化し続けていく。
堀江は展示室の中央に設置された大きなソファに座り、崩壊しては新たに形成されていく世界のさまをじっと眺めていた。
古い建物の前で立つ男、女、少女、少年。その画像の完璧な一部のようにそこに存在している人物達。
まるであの7枚の写真の親父のようだと堀江は思った。
でも、その人物達も外へと出され消えていく。人物たちだけじゃない、遺跡となってまで残りそうな建物でさえ消えて、差し替えられていく。
「ああ、そうか。すべては今だけなんだな」
親父も母さんも堀江書店もあの街もオレも葵も、その瞬間だけのパーツなんだ。
10分ほどの上映時間が終わり、他の観覧者が展示室を去っていっても、堀江はそのまま薄闇の中、ソファに座っていた。

 

 

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最後の晩餐,イエス

 

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絵画芸術、画家

 

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モアレの風景,展示

 

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干渉世界

 

途中の千葉駅で購入したビニール傘の先に滴を溜めながら、堀江は喫茶ラピスラズリの玄関先で立っていた。
「雨、強くなってきましたね。いらっしゃいませ」
光が差し込まず薄暗くなった店内で、カウンターの上に吊るされたペンダントライトの明かりに照らされた真知の姿は少しぼやけてみえた。雨で客足が遠のいたのか、客の姿はなかった。
「行ってきたよ。小川信治展」
堀江は傘を傘立てに入れながら独り言のように呟いた。
「あれはなんだったんだろう」
真知が「肩が濡れていますよ」と白いタオルを堀江に差し出す。「ありがとう」と堀江はタオルを受け取ると、カーディガンに付いた雨の滴をふき取った。そしていつもの席に着いた。
「なんでしょう。ぐらぐらしたでしょ?」
真知が上目遣いで優しい表情を浮かべて微笑んだ。堀江が初めて見た真知の笑顔だった。
「ぐらぐら?なるほど、いいこと言うね。うん、ぐらぐらしたよ。確固したものというか、安定したものは何もなかったんだって突き付けられたような感じでさ、正直不安を覚えたよ」
でも、と堀江は続ける。
「干渉世界っていう映像作品覚えてる?あの映像を見ながら考えたんだ。人も建物も時代もひとつの層にすぎなくて、それがたまたま重なりあって今あるだけに過ぎないなら、何事も不安定な存在なら、単純にただ時間を上に重ねていけば強固なものになるわけじゃないのかもしれない、大事なもんはそこじゃないんじゃないかって」
堀江は真知に話しているというより、噛みしめるように自分自身に話しかけている。そんな堀江の話に真知は黙って耳を傾けている。
「久しぶりに美術鑑賞なんてしたから、興奮しちゃったのかな。でも、本当ぐらぐらと不安になったり妙に納得したり、親父の気持ちについて思ったりしたよ。親父も安定なんてしていなかったのかも。商売的な安定とかそういうことじゃなくてさ、存在そのものがいろんな物事と干渉し合って変化しながら、親父と店の世界を作っていたのかなあ」
真知はドリップポットを手に取ると、セットされたドリッパーに少量のお湯を注いだ。珈琲の甘い香りがふわっと立ち上がる。
「小川信治は、自分や世界の構造について考え模索しながら作品を作っているそうですよ。堀江さんも世界の存在の謎に触れたんでしょうね。不安定で当たり前なんてない世界の」
落ち着いた手つきでドリッパーに間隔をあけながらお湯を注いでいく真知を眺めながら、堀江は考えていた。
まちさんは、オレが心動かされると最初からわかっていて展覧会のチケットをくれたのかな。このひとは一体何者なんだろう。
「不安定な世界、私は好きです。不安定じゃなきゃこんな切なくて面白い世の中にならないと思いませんか」
カウンター越しにそっと淹れたての珈琲が差し出される。
「美味しい桃が手に入ったんです。よかったら一緒にフルーツサンドウィッチ食べませんか。夕飯前のおやつです」
真知の誘いに堀江は笑顔で返す。
「もちろんいただきます」


ちらほらとクリスマスの飾りつけが街中で目立ち始める頃、真知は出したばかりのロングコートを羽織ってすずらん通りを急いでいた。行きそびれていた美術展が今日までと知り、慌てて店を閉め、駆け出したのだ。
駅へと急ぐ途中、先月オープンしたばかりのブックカフェの前を通った。知的好奇心を満たす蔵書、心地よい優しい音楽、心がほぐれるような温かい飲み物が店内では提供されているのだろう、窓際に座るお客は穏やかな表情で読書にふけっている。店の奥のカウンターでは、二人並んで笑顔で接客する堀江夫婦の姿があった。堀江は以前より自信に満ちた顔をしていて、頼りない若者の雰囲気は消えていた。
そして入り口付近の壁には、あの堀江書店と両親の7枚の写真がそれぞれ木の額に入れられ、一列に並べて飾られていた。その横にはブックカフェの前で並んで立つ堀江夫婦の写真があった。
真知はひとり小さく頷くと、木枯らしを受けながら足早に駅へと向かった。


終わり

 


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「小川信治−あなた以外の世界のすべて」千葉市美術館 フォトレポート

 

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