袋屋清左衛門邸 袋屋美術館
小林一茶が袋屋を訪れるようになったのは、文政五年(一八二二)頃からといわれていますから、一茶の最晩年の頃です。漢詩をつくる蘭腸は俳句にも情熱をかたむけ、善光寺俳壇の戸谷猿左が主宰する「俳譜発句帖」に梅堂の俳号で作品を発表しています。六代袋屋清左衛門こと梅堂とその息子七代目梅塵は一茶と急速に親しくなり、一茶の袋屋への出入りも頻繁になります。特に梅塵は一茶の門人として、最晩年の一茶の面倒をよくみました。今も袋屋清左衛門邸には一茶の俳句が数多く残されていて、その交際の深さが忍ばれます。