#MeTooとアラーキー告発に見る、作品至上主義のおわりのはじまり

nanchatic2018/05/14(月) - 19:30 に投稿
#MeTooとアラーキー告発に見る、作品至上主義のおわりのはじまり

#MeToo 運動や元写真モデルによるアラーキー告発を見て感じるのは、作品と人権という2つのバリューの天秤の高さの今日的な変化です。MeToo運動は、TwitterやInstagramを通して拡大していったように、映画会社、プロデューサー、ディレクターが大きな影響をおよぼしていたマスメディアに代わって、SNSという個人発信の手段が可能にした運動でした。

「わたしたちは道具ではない」という映画作品や写真アートのキャストやモデルたちの主張は、それまでの創作側の作品至上主義、そしてアンタッチャブルな神聖と見なされてきた芸術作品に対する、「犯される側」からの「犯すべからざる領域」への反乱であるようにも見えます。

純文学とモデルの人権


アラーキー告発に関する記事の中に、島崎藤村(1872〜1943)の小説『新生』に登場するモデルに触れたものがありました。日本の純文学の歴史を振り返ると、藤村に限らず、登場人物のモデルとなった実在の人物(多くは女性)への人格権を侵害した事案が数多く発見できます。

島崎藤村は妻の病死後、家事手伝いに来ていた実兄の娘である姪の19歳の島崎こま子(1893〜1979)と近親姦の関係を持ちます。こま子の妊娠の知らせに狼狽した藤村はフランスのパリに逃亡し、出産した子どもは養子に出されます。3年後に帰国した藤村はこま子と再び関係を持ち、彼女との一連の出来事を綴った小説『新生』を新聞連載で発表。スキャンダル騒ぎから日本にいられなくなったこま子は、台湾にいた藤村の長兄のもとに身を寄せることになります。この『新生』の主人公(=藤村)のエゴイズムに対しては、後に芥川龍之介が痛烈に批判しています。


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太宰治(1909〜1948)が終戦後の津軽の生家の没落を、チェーホフの『桜の園』になぞらえて書いたベストセラー小説『斜陽』。作中の「かず子」のモデルとなった太田静子(1913〜1982)は、『斜陽』の材料として太宰に自分の日記を提供、やがて不倫関係にあった静子は太宰の子を身ごもります。静子から逃げまわっていた太宰は結果的に子どもを認知し、本名の津島修治から一字を採って「治子」と命名します。後に作家となる太田治子さんです。

『斜陽』刊行の翌年の1948年6月13日、太宰治は愛人の山崎富栄と玉川上水で入水心中を遂げます。同年、太田静子は太宰に預けていた日記を『斜陽日記』として公開。『斜陽』のほとんど下敷きとなった内容や丸ごと引用されている文章から、『斜陽』は静子の日記を元ネタとしてリライトされた作品だったことが判明します。太田治子さんのインタビューによると、太田静子は『斜陽』の印税を出版社から受け取ることも津島家から援助を受けることもなく、炊事婦や寮母として懸命に働きながらシングルマザーとして治子さんを育て上げたとのことです。

表現の自由と人格権

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1994年に文芸誌『新潮』に掲載された、柳美里のデビュー小説『石に泳ぐ魚』。掲載作品を読んだモデルとなった顔に障害のある韓国人女性は、容貌の描写と個人情報の記述からプライバシーと人格権が侵害されたと、出版差止めを求めて裁判を起こします。2002年の最高裁による戦後初めての小説の出版差し止め判決は、「文学における表現の自由」をめぐって文学界で大きな議論が起きました。最高裁は本作が、「出版されれば被害者の精神的苦痛が倍増され、平穏な日常生活を送ることが困難になる。文学的表現においても他者に害悪をもたらすような表現は慎むべきである」と判決理由を述べています。

判決を受けて原告女性はこうコメントしています。


「8年間という長い闘いの歳月を経て下されたこの判決を受け、私は長い悪夢にうなされて目覚めた朝のように、静かな疲労の境地にあります。今日にしてようやく再び自分自身の人生の歩みを進める時がきたというのが、今回の最高裁判決をいただいての心境です。
この勝訴の判決は、私のこれまでの苦痛を完全に癒しうるものではありませんが、私にあらためて生きることの希望と勇気を与えてくれるもののように感じます。今後の日々を大切に生きてゆきたいと思います」

判決確定から1ヵ月後、柳美里と新潮社はモデル女性の周辺情報や腫瘍のある顔について直接的に描写した箇所を修正し『石に泳ぐ魚』の改訂版を刊行しています。モデル特定が不可能だから原告女性は傷つくことはない、という著者側の主張には疑問を感じてしまいます。

タランティーノがポランスキー弁護で炎上


MeToo運動では今年2018年2月にユマ・サーマンが参戦、ハーヴェイ・ワインスタインからセクハラ被害にあったことを告発します。しかしニューヨーク・タイムズ紙に掲載されたインタビューをめぐっては、クエンティン・タランティーノ監督の『キル・ビル』撮影中に起きた彼女の自動車事故の方に注目が集まることに。運転に自信のなかったサーマンは撮影にスタントの代用を申し出るも、タランティーノに安全を保証され、現在も後遺症が残る悲惨な事故に繋がったと主張します。その後サーマンは、Instagramでタランティーノから提供された事故動画とタランティーノを弁護するコメントを投稿、ワインスタインを含むプロデューサーたちの事故の隠蔽批判に転じました。

ワインスタインと親しかったタランティーノは、昨年10月に同氏のセクハラ行為を長年に渡って黙認していたことを認め謝罪していますが、ロマン・ポランスキーの起こしたサマンサ・ゲイマーさんへの性的暴行事件について、2003年に出演したラジオ番組での発言がネットで拡散し再び大炎上します。タランティーノは、ゲイマーさんが同意の上で性行為を受け入れたのでレイプではないと主張し、ポランスキーを全面擁護するコメントを発言。SNSで起きた批難の嵐に、タランティーノはすぐさまゲイマーさんに全面謝罪しますが、この件で自身の評判を決定的に傷つけてしまったことは確か。


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ポランスキーは1977年にジャック・ニコルソン邸でのパーティーで、当時13歳だったモデルのサマンサ・ゲイマーさんにシャンパンと薬物を飲ませて強姦して陵辱。裁判で有罪判決を受けるも仮釈放中にロンドンを経てパリへと国外逃亡して移住し、その後アメリカには一度も帰国していません。2009年には映画祭の授与式に出席するためチューリッヒに滞在中、スイス司法当局に国際指名手配に従い身柄を拘束されます。マーティン・スコセッシ、コスタ=ガヴラスなど多数の映画監督やカンヌ映画祭事務局が釈放運動を展開し世論の間で論議が沸騰。米当局は身柄引き渡しを要求しますが、最終的にスイス側はポランスキーを釈放しました。

ポランスキーと同じくユダヤ系の世界的な映画監督ウディ・アレンも、ミア・ファローの娘ディラン・ファローに、7歳の時に性的虐待を受けたと告発されています。ただし、ポランスキーの場合は、映画『テス』の主演女優ナスターシャ・キンスキーを含め、10代半ばでレイプ被害を受けたと訴える被害者は4人に上り、性犯罪の常習犯という印象です。最初の被害者のゲイマーさんは、ポランスキーに対する起訴を取り下げるよう何度も当局に申し入れています。メディア報道の被害によって3児の母親としての一般家庭のプライバシーが侵害され、40年前の事件からいまだに逃れられない状況に決別したいとの願いからです。

1962年のデビュー作『水の中のナイフ』から2002年の映画作品『戦場のピアニスト』まで、ポランスキーは間違いなく天才と言いきれる映画監督です。一方、薬物を使って性的虐待におよぶという卑劣な手段は、かつて彼がポーランドで経験したナチスによるユダヤ人迫害の手法を想起させます。ポランスキーの母親はアウシュビッツ収容所で殺され、自身もナチス占領下のフランスで「ユダヤ人狩り」から逃げ回る日々を送っていました。こうした戦時中の過去の背景や、チャールズ・マンソンによる当時妊娠中の妻シャロン・テート惨殺事件が映画業界で斟酌され、ポランスキーの病的な性質が看過されてきた側面があるのかもしれません。

作品と人権のバリューの変化


2018年5月に米映画芸術科学アカデミーは、ロマン・ポランスキーとコメディ俳優のビル・コズビーのアカデミーからの除名を発表しました。MeToo運動の盛り上がりの影響から、ハーヴェイ・ワインスタインを含む3名の著名な映画関係者がアカデミーから追放される結果となったわけです。


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米アカデミー賞と並ぶ権威を誇るカンヌ映画祭をめぐっては、米動画配信サービス大手のNetflixが同映画祭への参加拒否を表明しました。カンヌ映画祭事務局の制定した、フランスで劇場公開しない作品はコンペティション部門への参加が認められないという新ルールに反発したものです。

映画界の権威というものが、MeToo運動を推進したSNSや、ストリーミング配信といったパーソナライズされたカルチャーによって大きく揺らいできている状況が伺えます。Netflixの快進撃が続くなら、絶対的な権限を持つ映画監督とプロデューサーによる従来型のトップダウンの映画製作から、待遇や人権面を充分に配慮するNetflixのチームプロダクションへと、映画界の優れた人材が移行する可能性もあります。映画作品に参加する人たちの人権のバリューが、作品とそれにお墨付きを与える権威のバリューより、重要視される世の中となったと言えるかもしれません。

ストリーミング配信やサブスクリプション型のカルチャーモデルは、SNSと連動しながら今後も成長していくことが予想されます。それに伴い音楽や映像作品が、単なるエンターテインメントとして日常的に消費されるだけの存在になってしまうリスクも感じさせます。権威から解き放たれたアートがどのように人々の間に浸透していくのか、インディペンデントなアーティストたちを社会がどんな形で支援していくのか、注意深く見守っていく必要がありそうです。

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