『トゥー・マン・ショー』ってなに?
「女性らしくあること」や「男性らしくあること」に、一度ぐらい生きづらさや居心地の悪さを感じた経験はないでしょうか。日本でも女性の社会進出が少しずつ進む中で、ジェンダーについて論じられる場面が増えてきました。ジェンダーとは一般に生物学的な性別の違いに応じて社会的・文化的に男女にそれぞれあてはめられてきた役割やイメージのことを指します。
『トゥー・マン・ショー』は2016年の初演後、2016年エジンバラフリンジ演劇祭大賞など様々な賞を受賞し、イギリスツアーではチケットの完売が相次いでいる注目の現代演劇作品です。作品を制作、上演したのは、イギリスの演劇ユニット、ラッシュダッシュ(Rash Dash)。2009年、当時大学でフェミニズムを勉強していたアビー・グリーンランド(Abbi Greenland)とヘレン・ゴーレン(Helen Goalen)2009年が立ち上げたユニットです。現在では作曲と演奏なども手がけるベッキー・ウィルキー(Becky Wilkie)も加わって、演劇、コンテンポラリーダンス、歌、音楽などを組み込んだ作品を、3人で制作し、3人でパフォーマンスしています。
彼らの代表作『トゥー・マン・ショー』が9月23日にイギリス北西の都市マンチェスターで上演され、私もイギリス演劇現地レポーターとして観に行ってきました!ジョークや音楽を交えながらも、男女のジェンダーの有り様と、それによる双方の生きづらさについて観客に考えさせてくる作品でした。早速作品の詳細をレポートしていきたいと思います!
<作品トレーラー>
Rash Dash: Two Man Show by Digital Stage
作品のあらすじ
作品の中心的なあらすじは、仲違いして久しい男兄弟のジョンとダンが、父親の臨終に際して久しぶりに顔を合わせる場面から始まります。居心地の悪い雰囲気のなか、2人は父の寝室の前で互いになんとか会話をつなげようと苦心するのですが、2人の会話はぎこちなく空回りしてしまいます。兄弟で一緒に向き合わなければいけないはずの父の臨終や葬儀にも、おろおろと動揺するばかりで協力して対応することができません。特に弟のダンは、父親の死に対する動揺だけでなく、最近自分の恋人に想定外の妊娠が発覚し、さらには自分の軽率な発言で中絶に追い込んでしまったショックもあり、自分の中の混乱と苛立ちを抑えきれず、ジョンと大げんかしてしまいます。自分の悲しみやショックを素直に伝え合うことができないまま、兄弟は互いに別れを告げるのでした。
今回の演技面での見どころの一つは、兄ジョンを演じるヘレンと弟ダンを演じるベッキーが、スラングを多用したぶっきらぼうな喋り方や、手足の動かし方、歩き方を通して、(一般に典型的イメージとして想像される)若い男性の大きな特徴を器用に演じてみせるところ。女性パフォーマーとして、あえてヌードで胸やお尻などの女性の身体的特徴を観客に提示しながら、身振りや会話などの演技の面では男性を演じてみせるので、男性と女性の視覚的なイメージが層のように重なって見えてきます。ダンとジョンの場面の合間には、コンテンポラリーダンスの場面も組み込まれ、長い歴史を通して常に存在したり、あるいは人が想像したりしてきた様々な人間、男女のイメージが作品に加えられていました。
男性のジェンダーと彼らの「生きづらさ」
仲違いした兄弟ジョンとダンは、うわべでは威勢の良い言葉遣いや格好をつけた挙動をみせる一方で、心の中では父親の臨終や想定外の恋人の妊娠と中絶に動揺し続けています。男性としてそんな素振りは見せず、常に力強く主導的な姿でいたい。あるいは、そうでなくてはいけない。にも関わらず2人は目の前の問題にうまく対応できず、本音では自分たちの無力さに狼狽しています。社会や家庭を引っ張っていかなければいけない男性のジェンダーに阻まれて、本当の姿を見せることができない兄弟の様子を見ていると、男性中心社会の中でのジェンダーが、男性にとっても、時に不自由なものになりうるのではと考えさせられました。
女性のジェンダーに見られる矛盾
一方で、作品は女性にとってのジェンダーについても観客に疑問を投げかけてきます。
作品終盤では、ベッキーが弟役の演技を終え、パフォーマーとしてのベッキー自身に戻った設定になるのですが、兄ジョンを演じていたヘレンはジョンの演技をやめません。ついには演技と現実が入りまじり、ヘレンは自分は男でも女でもない第三の性別である「マン・ウーマン(Man-Woman)」であると言い出して、本当の自分の姿についてマイクに向かって叫び続けます。一方のベッキーはヘレンが登場するまでは盛んに男性中心社会を批判していたにもかかわらず、最後はヘレンを遠巻きに見ながら、本心では自分は男性に守られ、優雅でか弱い女として振る舞うことに満足している瞬間があると観客につぶやいて、作品は幕となります。
ジェンダーを批判し、男性中心的なあり方を否定しながらも、一方では伝統的なか弱い女性のジェンダーに満足し、男性に自分を守ってくれる力強いジェンダーを期待するヘレン。彼女はまさにジェンダーに対して矛盾したイメージを抱えた女性です。
しかし、女性である自分自身を振り返ると、女性がより平等に活躍できる社会が欲しいと思う一方で、自分が男性に期待するイメージや自分が憧れる女性像が、既存の「男性らしさ」、「女性らしさ」の枠から抜け出せていないことに気づきました。男性女性問わず、多くの人の中にも、ヘレンが持っているような矛盾があるのではないでしょうか。
『トゥー・マン・ショー』のメッセージ
この作品の制作背景には、当時イギリスのメディアや社会学の研究者らが「男性中心性の解体(Crisis of Masculinity)」を指摘していたことが挙げられます。『トゥー・マン・ショー』は、それを踏まえ、家父長制や「男らしさ」の規範が社会から薄らいでいくことへの(主に)男性側の恐怖心に対して、ラッシュダッシュが準備した返答といえます。しかしそれだけではなく、私は、男性のみならずより幅広い人たちへ向けてのメッセージを感じました。
「マン・ウーマン」のヘレンが象徴しているのは、もしかしたら、女性のジェンダーからなんとか離れて生きようとする女たちや、あるいはジェンダーの枠に違和感を感じているセクシャルマイノリティの人々の姿なのかもしれません。一方で、ベッキーが表現するのは、男性中心社会を批判しながらも、実は昔ながらの「女性らしさ」に満足している女性のジレンマかもしれません。そして、2人が演じるジョンとダンの動揺からは、力強く万能であるべしという理想の男性像と、狼狽する2人の空回りが透けて見えます。社会や自分たち自身が課している男女の「あるべき姿」に、みんなが葛藤しているのです。
身近な例で具体的に考えてみると、昨今の日本では、女性の子育て支援の重要性だけでなく、社会的な男性の育休取得の難しさも指摘されつつあります。男性中心の社会の崩壊が論じられるなかで、男性のジェンダーは男性たちがより生きやすい方向へどれだけ変化出来ているのでしょうか。同時に、この数十年で女性の社会進出や家庭、社会での発言権が少しずつ拡大し、新しい女性像が支持される一方で、日本の女性たちは昔ながらの女性像をどう受け止めているのでしょうか。 ジェンダーの壁にむきあいつづけるセクシャルマイノリティの存在についても、今回の作品を通して考えさせられました。
最後に、作品の終わりに3人が歌う歌の一部をご紹介したいと思います。
<動画>
There Were Goddesses / A film for Third Angel's Small Celebrations
By RashDash and Alice Russell
I thought I could tell you with words who I am with words how fanny of me…
(本当は自分がどれだけ滑稽なのか、あなたになら言える気がした。)
I wake you up in the middle of the nigh to tell you I’m not scared of who you really are…
(だから、真夜中にあなたを起こしに行った。あなたの本当の姿を知るのも、私は怖くないんだよって伝えたくて。)
Two man show. Rash Dash&Northern Stage&Soho Theatre Company. Oberon Books.2017. p.75
この歌詞には、様々なジェンダーの矛盾を指摘しつつも、ラッシュダッシュが一番表現したかったメッセージが集約されているような気がします。どのジェンダー、セクシュアリティの人も、みんながありのままの姿で、もっと「生きやすい」社会になってほしい。『トゥー・マン・ショー』からそんな願いを感じました。