安達泰盛(1231~85)は、文永・弘安の蒙古襲来のさなかに鎌倉幕府の重役をつとめ、絶大な権力を握ります。安達氏は、始祖にあたる盛長が源頼朝の側近として活躍して以来、景盛・義景・泰盛とつづきます。歴代「秋田城介」を名乗り、御家人の筆頭として幕政の頂点に立ち、幕府政治の中枢を占めました。
鎌倉幕府の有力御家人である安達氏は、鎌倉における真言密教の定着と展開に深く関わっていました。蒙古襲来に際して、鎌倉幕府は武力を総動員する一方で、神仏の力も集結させ、ことにあたります。とくに真言密教の力をたのむところが大きかったことが、国宝「称名寺聖教・金沢文庫文書」など称名寺に伝わる資料の数々からうかがえます。蒙古襲来という国難にあたり、政治・宗教の両面において重要な役割を果たした安達氏ですが、蒙古襲来が一段落し、北条時宗が世を去ったのち、内管領平頼綱との対立によって、安達一族は滅亡します。鎌倉幕府の重要な転換点をなす安達泰盛とその時代を中心に、鎌倉幕府の動向と、鎌倉に根付いた真言密教のかかわりについて、ゆかりの文化財から考えていきます。
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